「見る」ことと「言葉」について考えた。

 三島駅すぐ近くに大岡信ことば館というのがあるのを知って以来、いつか行こうと思っていたが、今日、思い立って行ってきた。
 ここでは今、「見ることはさわること?展」というのをやっている。壁面の大きなスクリーンに水の映像が映し出され、大岡信作詞の合唱曲が流れているのだが、残念ながら僕には訴えかけてくるものが感じられなかった。
 なぜだろう? スピーカーから流れる歌詞がよく聞き取れなかったからだろうか。床に映された歌詞が水のように渦巻き、読みにくかったからだろうか。だとすれば、「見る」ことより「読む」ことに意識が傾いてしまった僕自身に問題があったということになる。
 しかし僕は、今回の展示によって、皮肉にも「見る」ことや「さわる」ことに対する「読む」ことの優越性、すなわちメッセージを伝える様々な手段の中での、「言葉」の持つ特権的な位置づけが明らかになってしまったのではないか、という考えを捨てきれない。人は何かを知りたいと思う時、まずは言葉にすがってしまう…

 実は今日は、大岡信ことば館の前に、クレマチスの丘にあるベルナール・ビュフェ美術館を見学した。ここの展示の特徴は、作品だけが展示されている、すなわち作品のタイトルや制作年を書いたラベルが添えられていないことだ。その代わり、印刷した目録を渡されるから、それでタイトルなどを知ることはできる。しかし、美術館側の意図(あるいはビュフェの意図?)としては、まずは作品と向き合ってくれ、どうしてもタイトルが知りたければ紙を見よ、ということなのだろう。
 僕はと言えば、結局は几帳面にほぼすべての作品のタイトルを確認しながら見て回ることになった。タイトルが存在する以上、それを知ろうとすることは、当然の行為だと思う。しかし、それが作品の鑑賞にとっていつでもプラスになるかといえば、そうではないだろうとも思う。
 鑑賞者が自分なりのタイトルを見つけようと作品と向き合うことが、作品鑑賞の正しいあり方なのではないかと考えてみる。自分の言葉にできることが、本当に「見た」と言えることなのだ、と。ところが一方で、タイトルが見つかった時は作品鑑賞の行き止まりではないか、言葉探しなどせず、もっと純粋に、「見る」ことに徹したらどうか、という声も聞こえてくる。
 「見る」ことと「言葉」との関係、どうも僕の手に負えなくなってきたが、また別の機会にも考えてみたい。

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 大岡信ことば館を出た後、街中を流れる川沿いに立つ文学碑を見たり、三島大社を参拝したりしてから帰宅した。