ひとりの桜

著者より、『玉田憲子句集 chalaza』を送っていただいた。
最初に印をつけたのは、次の句。

足の五指拡げてをりぬ海開き

この夏初めての海。素足の足裏が砂を感じる。何気なく指を動かすと、さらに強く、砂が足を刺激してくる。ヒトが四肢で物を掴んでいたころの、太古の感覚がよみがえってくるようだ。海を前にしたとき、だれもが感じる解放感やときめきやおそれ、それらは半ば無意識の足の指の動きにこそ現れている。そこに目が行く人は、たぶん少ない。

孤独とは違ふひとりの桜かな

「孤独」と「ひとり」は違う。他者とのつながりを求めながらもそれが得られない状態が「孤独」。あえて人から遠ざかり、自分だけの空間に身を置くことが「ひとり」。作者は自ら「ひとり」であることを選んだ。自分だけの桜を見つけるために。

ありふれた今日といふ日の桜かな
荷台より顔出す仔牛夕桜
熱気球起き上がりたる桜かな
石斧持て起ち上がれよと桜かな

自分一人の桜は、誰もがその美しさを認めるような桜ではないかもしれない。しかし作者はあえてその方向を選んだ。作者は孤独ではない。

偽善者をやめて花柊になる

「偽善者」には見えてこないもの、「偽善者」にはできないものの見方、があると思う。以下のような句を読むと、俳句を作ろうとした途端に「偽善者」であることにとらわれていたかもしれない自分に気づく。「偽善」とは、ただうわべを取り繕うことではない。それはものの見方に関わる問題だ。

浴びたくもなき日を浴びて大根干す
愛の羽根付けて愛より遠ざる
川音の気になる野外映画かな
ダリア咲く少女のやうに不機嫌に
子に夫に聖菓切り分け不幸せ
愛憎の憎の勝る日悴めり

玉田氏がこれまで積み重ねてきた努力は、「芸」や「技」を磨くためのものでなく、独自のものの見方をさらに研ぎ澄ますためのものだったのではないか。読むたびに何かしら発見がある句集だ。

最後に、なぜかはうまく言えないが、僕にとってこれは間違いなく「名句」だと直感した句。鳥肌が立つ思いがした。

戦争や落葉に混じる鳥の羽



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