確かに似ていると感じたのは、気のせいじゃないと思う。

オーケストラの練習の帰りに横浜美術館に寄ってみると、入口前にはチケットを買う順番待ちの人の列ができていた。
僕は常設展示だけを観るつもりで来たのだが、チケット窓口は一か所しかないのでやはり並ばなければいけないのだった。僕は正直言って奈良美智にはあまり興味がない(と言うより、あの女の子に魅力を感じない)のだが、こんなに並ばされて常設展だけ観て帰るのももったいない気がしたし、これほど人を集める力のある奈良美智はやはり一見の価値はあるのだろうかと思い、高いほうのチケットを買って入った。


結論から言うと、奈良美智も観て良かった。常設展だけだったら物足りなかっただろう。
最初の展示室に入っていきなり迎えてくれる女の子のブロンズ像は、どこがいいのか、僕には理解しかねた。しかし、紙やカンヴァスにアクリル絵の具や色鉛筆で描かれた絵は、添えられた言葉と相俟って、メッセージ性のある面白い作品になっていたと思う。
それに、どの絵も色合いが柔らかく温かみがあって、心地よさを感じさせる。さらに観ていると、どの女の子も同じ顔のようでいて、微妙に違う(つまり、同一人物ではない)。中にはちょっとかわいいなという女の子もいたりして…
そういえば、観に来ている女性客も、なんだか絵の中の女の子に似た雰囲気の人が多いように感じたのは、気のせいか?


いや、気のせいではないだろう。
僕は今、池田満寿夫『模倣と創造』中公新書)を読んでいる。少々古い本だがなかなか面白く、実はチケットの順番待ちの列の中でもこれを夢中で読んでいたので、待ち時間が短く感じたくらいだ。
この本はまず、1966年にニューヨークで開かれた池田満寿夫の個展のあと、『タイム』誌の記者が行ったインタビューに対する憤りから書き起こされる。

その記者の第一問は「あなたの作品の女の顔は西洋人の顔である。なぜか説明してもらいたい」であった。そして、おきまりの質問、日本の伝統と私の作品との関係、その否定的な私の答えに対する相手の失望と、無理解から生ずる相互の気まずいやり取り、その結果、記者は今日のインタビューは全然コミュニケーションがなかったといって帰っていった。私の不満は、なぜ日本人の画家だけがいつもこうした偏見をつきつけられなければならないのかにあった。(p.6)

奈良美智の作品は海外での評価も高いようだが、あの女の子が西洋人の顔をしていたら、欧米での評価はどのようなものになるだろうか。
僕はブロンズ像のどこがいいのか理解しかねたと書いたが、一つ面白いと感じたのは、絵と違って顔を真横から観ることができるため、その鼻の低さが歴然とわかるという点だ。この顔はどう考えても西洋人のものではない。凹凸の少ない日本人の顔を特徴を誇張したものののように見える。そして、漫画的に単純化された造形。日本人の作品として、西洋人の期待に十分に応え得る要素を持っていると言えそうだ。

1966年から2012年、この半世紀近くの年月の間に、美術の世界において何が変わり何が変わっていないのか。僕のような一鑑賞者に過ぎない人間にわかるはずはない。しかし、池田満寿夫の「不満」は過去のものではないような気がする。だからこそ、それを逆手に取る戦略的なアーティストが現れてきているということなのではないか。