「倍音」に光を当てることで、見えてくるものがある。

倍音 音・ことば・身体の文化誌

倍音 音・ことば・身体の文化誌

筆者は倍音に注目し、倍音構造によって作られる音質の違いによってメッセージ性がどう違ってくるかについて、持論を展開する。
例えば、「助けて」という言葉でも、それをどういう音質で発するか(倍音が多いか少ないか)によって、伝わる意味は異なってくる。非整数次倍音を含むかさついた声で発音しなければ、相手に切実な気持ちは伝わらない。(オペラ歌手の発声法で「助けて」と言ったらどうかを想像すればそれはよくわかる。西洋の発声法は倍音が少ない。)
特に日本語は、音響的な面を多く持った言語で、擬音語・擬声語が多いこともその一つの表れだという。逆に、「風のささやき」「山の叫び」などの言い方があるように、自然の音響の中に言葉を聞くこともある。筆者が言うように、特に日本語にそのような性格が強いのかどうか、本当のところは他の言語についてももっと検証し比較する必要があるとは思うが、言葉と音響との結びつきが我々が漠然と感じている以上に強いものだという筆者の論には、説得力がある。
文学作品の観賞や創作においても、その音声面に留意することが重要であることについて、改めて考えさせられた。(もちろん僕は、俳句の音声面についてあれこれと思いを巡らせながら読んだ。575という定型=リズムの問題ではなく、個々の言葉の持つ音色の問題である。)
筆者は倍音を手掛かりにしながら、芸術の役割、日本の音楽と西洋音楽の違いと今後のあるべき姿、異文化間のコミュニケーションなど、様々な問題について言及している。とても刺激的な著作だと思う。

私たちの身の回りには、もとの意味から離れて音響に重心が移った言葉が、いくつかあります。「オハヨウ」「コンニチハ」「タダイマ」などです。これらの言葉では、原義は重要でなく、重要なのは、その音響です。これにより私たちは、非言語性の無意識下の重要なコミュニケーションを行っているのです。「オハヨウ」の音響の中に、私たちはさまざまな内容を聴き取っています。たとえば、相手の心身の状態、自分に対する気持ち、などです。一瞬の一言で、それらを交換しているわけです。したがって、挨拶は、言語としての意味は少なくても、非常に重要なコミュニケーションの手段と考えられます。(p.101)