超新撰21―セレクション俳人プラス (セレクション俳人 プラス)
- 作者: 筑紫磐井,高山れおな,対馬康子
- 出版社/メーカー: 邑書林
- 発売日: 2011/01
- メディア: 単行本
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それは、採りあげられた俳人のキャリアの長さからくるとばかりは言えない。小川楓子は、なんと句歴2年だというのに、こんな句を作ってしまった。
軟骨の透きとほるまで花疲れ
ぼろ市やとてもまぶしい場所がある
平茸の裂けて羽ばたきやまぬ村
濃いさくらうすいさくらを呼びわける
僕には、小川氏自身が今「とてもまぶしい場所」に立っているように見える。
たくさん○印をつけて読んだのが上田信治。
上のとんぼ下のとんぼといれかはる
火を焚いて砂浜の名がわからない
冬の浜より国道へもどる道
横向きに飼はれてゐたる兎かな
ゆつくりと金魚の口を出る小石
西口で買つた西瓜を北口へ
変な句だけど、面白い。いや、変な句だから面白いのか。とにかく何度でも読みたくなってしまう。なぜそんなに面白いのか、説明は誰かにまかせればいいや、と思う。それより、夏休みが明けたら黒板に、
今日の一句…
電線にあるくるくるとした部分
と書いて、「どうだ、参ったか!」と生徒に言ってやりたい。
ところで、次の句をどう読むか。
肩車姿見にぼくの首が無い 山田耕司
僕は、肩車をしてもらって姿見の前に立ったら、自分の首が姿見よりも上にあって映らなかった、というふうに読んだのだけれど、四ツ谷龍の「小論」には次のようにある。
肩車された自分が鏡に映っているが、そこからは首が消えている。これを私は、自虐や幻想とは受け止めない。自分には首が無いのだから、容貌や表情に気を遣う必要がないし、ものを考えなければならないという責務からすら解放されているのだ。創作とは、そういう逸脱の精神から生まれるものであろう。
なるほど、そういう深い読み方もあるんだな、と唸ってしまった。でもやっぱり僕は、「ぼく」の首は姿見からはみ出しているだけじゃないかと思う。そう読んでも十分に面白い句だと思う。