魔法のような

西澤みず季の句集『ミステリーツアー』を読む楽しみは、その表題さながら、次に何が現れるかわからないわくわく感に負うているところが大きいのではないか。
次のような句では、自分が今いる場所のほんの数歩先から、予想を裏切る新たな光景が展開する。


棚雲を捲れば菜の花畑です
玉葱の暖簾くぐるや核シェルター
鍵穴の向かうは異国黄砂降る
MRI抜けて大雪原の中



次のような句は、「こんなところからこんなモノが」という意外性が驚きをもたらしてくれる。


自動ドアから真つ白な祭足袋
木下闇から蟹股の犬と父
鞄から草餅五個と委任状
砂場から乳歯一本敗戦忌



これらの句は、実景そのままを写し取った句なのだろうし、仮にそうでないとしても、現実にこういう状況は大いにあり得る。丹念に探せば、僕らをとりまく現実の中に、詩はいくらでも潜んでいるのだと改めて思う。
ところが、次のような句はどうだろう。「こんなところにこんなモノが」という意外性と言ってしまえば、上に挙げた句と同類として括ることができる。だが、これらの句が僕らの眼前に提示するイメージは、現実の中に見つけられるものではない。


屋根裏にユニコーン棲む春隣
冷蔵庫の中の明るき祭かな
鮠の腹裂くや夕虹溢れ出す
百円ショップ籠いつぱいの鰯雲
ハンモックの下機関車の散乱す
夕虹やワイングラスの中に森



「屋根裏」に棲む「ユニコーン」とは何か。「冷蔵庫」の中の「祭」とは? 「鮠の腹」から溢れ出る「夕虹」とは…?
それらは何かの暗喩かもしれないとあれこれ考えてはみるが、答えは出てこない。いや、答えらしきものはありそうなのだが、むしろ「夕虹」そのもの、「鰯雲」そのものを思い浮かべて、イメージの飛躍を楽しんでしまうのがこれらの句の正しい楽しみ方のような気がする。ミステリアスというより、シュール。超現実的な絵を頭の中に作り出してしまうのだ。結社「街」がその「宣言」の中で謳っている「魔法のような遠近法」や、「鮮烈な色彩とイメージの連繋」というのは、こうした句にもっともよくあてはまるのかもしれない。


最後に、僕が好きな句、印象に残った句を挙げておく。上に書いたことが、この句集のほんの一面にしか触れていないことがわかっていただけると思う。


縄文の穴から遠足の足音
泡立草増ゆ傷口がまた開く
闇を押す女踊の男の手
オルガンのファから冷たき吐息かな
春の雲母を名前で呼んでみる
万緑に忘れてしまふ息吐くこと
秋暑し謝ることを仕事とす
綿虫やみんなに当たる抽選券
大雪の中大雪を見に行きぬ



外はまだ雪降っているかな…