頭振りつつ

句集 感謝

句集 感謝

認識するとは、物事に名前を与えること。ならば、見るとは、物事を言語化すること。…そんなことを考えながら読んだ。


焼藷を割つていづれも湯気が立つ


当たり前のようでいて、実は僕らは右手の藷と、左手の藷とがそれぞれ別々に湯気を立てているという事実をしっかりと見届けてはいなかったのではないか。「いづれも」と表現されることによって、初めてその景が見えてくる。そこに軽い驚きが生じる。


栗の虫頭振りつつ現れし


今まで、小さな栗の虫が頭を振って出てくるところを見た人はいただろうか。作者は見た、それは、「頭振りつつ」という言葉の発見と同時の出来事だろう。
一方で、言葉は見ることを妨げもする。「紅葉」といい、「黄葉」という。だから、「紅」や「黄」以外の色が見えてこない。


紅葉してゐるや茶色に紫に


「茶色」も「紫」も、僕らの網膜を刺激していたはずだけれど、こうして言語化できなければ見たとは言えない。見るとは、一度自分にしみついた言葉=先入観をリセットし、視覚と言語感覚をダイレクトにつなぐことなのだと思う。(それは決して簡単なことではない。)
岸本尚毅の視線は、もっぱらありふれたもの、平凡なものへと向かう。そこはすでに既成の言葉がしみついた世界である。そこをあえて自分の作句のフィールドにしようという姿勢の背後には、自らの「見る」力に対する並々ならぬ自負があるだろう。その自負とは、自らの繰り出す言葉への信頼と同義である。


現れてしばらく遠し土用波
スリツパの足をぶらぶら此処涼し
堰越ゆるところが薄し春の水
紫の花は目立たず秋日和