繊細で冷徹な眼差し

吉川宏志集 (セレクション歌人)

吉川宏志集 (セレクション歌人)

あさがおが朝を選んで咲くほどの出会いと思う肩並べつつ
花水木の道があれよりも長くても短くても愛を告げられなかった
画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂をのぼりぬ


短編小説と測りあえるほどの深い余韻を残すこれらの作品に、僕は吉川宏志の存在を強く印象づけられた。今回もまた、鳥肌立つような感覚に襲われた。


のこぎりを戻しに来れば物置がぱたんと影を倒して暮れる
横顔はもう片方の横顔を隠して雪の街を過ぎゆく
抱いていた子どもを置けば足が生え落ち葉の道を駆けてゆくなり


作者の感覚鋭い眼差しは、ありふれた現実の中に非現実へと続く小さな裂け目を見つける。その裂け目を少しだけ広げて見せた作品群。現実(横顔)の側にとどまるか、ここから非現実(もう片方の横顔)の世界へと踏み込んでいくか、それは読者次第だ。


教科書に載る〈南京〉を金輪際消しに来るなり赤黒き舌
虐殺の写真は偽と断言す断言は深く人を酔わしむ
物言わず賛否の賛に従いし会合のあと夜の木は立つ


抑制された表現が、かえって作者の憤りの深さを窺わせる。そして諦念。この根底には冷徹な現実認識が潜んでいるんだと思う。


産み月の葉月が近し腹の皮うすくなりたる妻は日蔭に


これまでに男性歌人が無意識に避けつづけてきた生殖というテーマを、いかにリアリティーをもった表現で、自らの切実な問題として歌っていくか―これがいま最も必要とされていることなのである。」(「妊娠・出産をめぐる人間関係の変容」)を実践した作品群の中の一首。これらにも作者のさめた眼差しは感じられる。