言葉ではなく…

オーボエというのは、好きな楽器ランキングを作ったとしたら、その上位に確実に入る楽器。だから、図書館の書棚に並んだ本の背をさっと眺めただけで、僕の眼には「オーボエ」という文字が飛び込んできたのだ。(もちろん、ファゴットなんとか」という書名だったら絶対に見逃さないだろうけれど、実際そういう本はあるだろうか?)

オーボエとの「時間(とき)」

オーボエとの「時間(とき)」

「時間」に「とき」とルビがふってあるのは少々気恥ずかしいが、中に目を通してみると興味をそそる記述がいくつか目についたので、借りて来た。
著者の修業時代について書いてある前半部分はなかなか面白い。並はずれた行動力が、一流の音楽家への道を切り拓いたのだということがよくわかる。
後半では、指揮者のあるべき姿について語ったいくつかの箇所が、僕にはとても興味深かった。

すごい指揮者というのは、練習中に言葉の力に頼らなくてもオーケストラを納得させることができて、さらに本番になるともっといい演奏へと導くことができる。もちろん、指揮者が自分の考えをオーケストラに伝える際に、言葉による説明やコミュニケーションは必要だ。でも、演奏者は客席に向かって〈僕たちはさっき、こういう場面を想定して吹いていました〉などと解説するチャンスはない。そのかわり、それをいかに表現によって伝えるか、いつもそこでギリギリの勝負をしているのだ。だから、指揮者だけが言葉で雄弁にイメージを語るというのは、フェアじゃないと思うのだ。

僕は今まで、指揮者の「言葉」の力というのはとても重要だと思ってきた。著者もそのことを否定はしていない。(先日読んだ、岡田暁生の『音楽の聴き方』にも音楽を語る「言葉」の大切さについて書いてあったことを思い出す。)
しかし、指揮者の仕事は言葉で「うんちく」を語ることではなく、そのタクトによって、いや、そこに存在することによってオーケストラから音を引き出すことだという著者の主張は、なるほど僕の経験を思い起こしてみても、その通りだと納得してしまう。

「舞踏会でこーんな長いドレスを着て、タラーンとお辞儀をするような感じでね」
なんてベタな説明をされてしまうと、こちらの空想もつられてベタになり、表現にまるで奥行きがなくなってしまう。
〈アンタが体の動かし方を少し変えてくれさえすれば、こっちはそこまで言われなくたってわかるよ!〉

この部分、読んで反省した方がいい指揮者がたくさんいそうな気がするなあ。