仮名遣いはどうする?

俳句を作ろうとすると、「現代仮名遣い」で書くのか、「歴史的仮名遣い」で書くのか、自分なりの基本方針を決めておく必要に迫られます。その際、「歴史的仮名遣い」の方が奥深さを感じる、という程度の感覚的な判断ではまずいのではないか… そこで、まずは本箱に眠っていた福田恒存『私の國語教室』を読み始めました。

私の国語教室 (文春文庫)

私の国語教室 (文春文庫)

(僕が読んでいるのは昭和50年発行の新潮文庫版です。)
これが実に面白い…なんて、本当は今ごろになって面白がっていてはいけないので、俳句を作ろうと作るまいと、国語の教師たるもの、このくらいのことは勉強しておかなくてはいけませんでしたね。国語教師は余計なことを考えずに正しい「現代仮名遣い」を教えていればいいんだ、ってわけではないでしょう。教室では生徒たちの無用の混乱を招くようなことは言わないまでも、福田が指摘するような「現代仮名遣い」の矛盾点は押さえておくべきだと思います。
かといって、国民の間に定着している「現代仮名遣い」を今さら「歴史的仮名遣い」に戻すべきだなどと言い出すつもりはないのですが、福田が何度も書いているように、「歴史的仮名遣い」というのはそれほど難しいものでもないのです。『私の国語教室』は「歴史的仮名遣い」で書いてありますが、読んでいて不思議とそのことによる読みにくさは感じません。いや、この本に限らず、「歴史的仮名遣い」で書かれた文章を、それとは意識せずに読んでいるという経験は少なからずあります。まあ、僕の場合は仕事柄当然かもしれませんが、そうでなくても、読むことに関しては、「歴史的仮名遣い」はそれほど抵抗なく受け入れられているのではないでしょうか。
僕はワープロを使い始めた時に覚えたキーボードの「ひらがな入力」を数年後に「ローマ字入力」に変えるという経験をしていますが、案外慣れるのに時間はかかりませんでした。読むだけでなく書く方についても、「歴史的仮名遣い」の習得はその程度の努力でできそうな気もします。
もちろん、「現代仮名遣い」の正当性を主張する人にも言い分はあるでしょう。昨日は図書館に行き、白石良夫『かなづかい入門』、それからついでに安田敏郎『金田一京助と日本語の近代』萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』という本を借りてきました。仮名遣いについてはもっと理解を深めなくてはいけないと感じています。