都市という枯原

mf-fagott2010-01-26昨日、「街」同人の小久保佳世子さんより句集『アングル』が送られてきました。「都市遠近」と題する章の末尾には次の二句が並んでいます。
東京の枯原を見る入場料
毛皮着て東京タワーより寂し

僕はこの二句を読んですぐに、一昨日DVDで観たばかりの映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のことを思い出しました。そこでは東京タワーが脇役ながら重要な役目を果たしています。テレビや冷蔵庫や自動車が家庭に普及し始める昭和30年代、東京タワーは来るべき便利で豊かな時代の象徴として夕陽の中に聳え立つのです。それは科学技術の進歩による人類の幸福をわれわれに確信させてくれる、頼もしいランドマークだったのです。
ところが、『アングル』に描かれた東京タワーはどうでしょう。それはもはや東京という「枯原」をわざわざ「入場料」を取って見せるための展望台に過ぎません。それは「毛皮」という高価な虚飾と同様、外見の立派さゆえにいっそう寂しさをかもしだします。
都市に現出した巨大建築への冷めた視線は、次の句からも読み取れます。
東京ドーム膨らみきつてゐる春愁
僕もまた、あまりにも人工的な環境の中で見せられる野球には胸がときめかないと感じている一人です。
『アングル』の中のいくつかの句は、科学技術に支えられる都市生活というものが必ずしも我々の幸福を約束しないことを語っているようです。すなわち、東京タワーという高みから殺伐たる「枯原」として都市を眺める、冷え冷えとした視線を随所に見てとれるのです。
地下溽暑沈澱物となりて人
電子音させて子等来る冬の坂

「電子音」の句も、『ALWAYS 三丁目の夕日』の中の、素朴な遊びに興じる路地裏の子供たちと比べたくなります。子供の遊びもまた大きく変わりました。ゲーム機の液晶画面に食い入る子供の表情から、50年前の子どもたちのきらきらと輝く笑顔を見出すのは難しそうです。
では、『アングル』のこれらの句は、現代の都市生活の諸相を告発する意図で作られたものなのでしょうか。たしかに、たとえば「電子音」の句でいえば、「冬」の一語に作者の批評意識が込められていそうです。また、次のような句からも、ペシミスティックな時代認識は読み取れます。
涅槃図へ地下のA6出口より
手遅れのやうなる街や春マスク
点滅の蛍や地球の持ち時間

しかし、句集全体を通してみれば、そうした批評意識は後方に引っ込み、かわりに生々しい現実そのものがせり出してくるように感じられます。
黄落期耳の近くに鋏ある
大桜一本や元運動場
貨物車の線路ぎりぎりまで蒲公英
夏至の日の左が短い山羊の角
白シャツからアフリカの腕伸びてをり

これらの句から感じられるのは、ありふれた現実の一断面を無造作に切り取ってそこに置いたという素っ気なさです。そして、そんな現実の一断面にも詩は生まれるのだという確信に満ちた作者の方法意識をそこに見出すことができそうです。句集名の『アングル』とは、そうした作者の方法意識そのものなのだと気付きます。
アングルを変へても墓と菜の花と
「墓」とは「神社仏閣生老病死」の、「菜の花」とは「本意」のまとわりついた「季語」の暗喩でしょう。この句からは、作者がファインダーを何に向けようとしているか、その明確な方法意識を読みとることができるようです。