創作現場を離れて

俳句鑑賞450番勝負 (文春新書)

俳句鑑賞450番勝負 (文春新書)

面白い本です。
読者は、作者の実際の創作現場や創作意図から離れた解釈をして、その句を楽しんだって許されると思っている。」と筆者は言います。実際、筆者の「俳句鑑賞」の仕方はいわゆる深読みというのでしょうか、なかなかユニークなものが多いように思うのですが、それでいて妙に納得させられてしまうのです。
たとえば、

トロンボーン吊るされてゐる冬銀河   浦川聡子

について、筆者は次のような読み方を提示します。

音を出していない状態の楽器、つまりただの物体である楽器は、音を出していないということで、強い欠如感を伝えてくる。それが、あるものを希求するという思いにつながっていくこともある。俳句にとっては、なかなかうま味のある素材といえる。

僕は、実際にどこかに置かれている楽器を見たとき、あるいは俳句や詩に詠まれた楽器をイメージしてみたとき、それを奇妙な(ときにはエロチックな)形をしたオブジェとして捕らえることはあっても、そこに「強い欠如感」を感じたことはありませんでした。しかし、そういわれてみればそうかも、という気がしてくるのです。
あるいは、

二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり  金子兜太

について、僕はこれを一つの現代的風景として面白く感じていたのですが、筆者が、

この「二十」は二十世紀の二十とすれば、賞味期限は過ぎているのかもしれない。昭和四十四年、メキシコオリンピックの翌年の作。

と書いているのを読むと、なるほど今はもう21世紀、これも既に過去の風景になってしまったのかもしれないなあ、と思います。この句の「二十」から「二十世紀」を読み取ったことは今までありませんでした。(ちなみに、実際に今は家電量販店のテレビがずらっとスポーツ中継を映し出すということはしないそうです。お客さんがテレビの前に群がってしまうことを避けるためらしいです。そういえば、ヨドバシでもヤマダでも、テレビ売り場で生中継を映しているのを見ないですね。)


さて、三橋敏雄に師事したという中村裕はこの本の中で、新興俳句以後の、それも現代詩寄りの句を多く取り上げています。索引で数えたところ、特に多いのは西東三鬼12句、渡邊白泉14句、そしてやはり一番多いのは三橋敏雄の22句で断トツです。(ちなみに、高浜虚子は3句のみ。)その三橋敏雄の句、「戦争と畳の上の団扇かな」の鑑賞に続けて、次のように書いています。

…新興俳句の申し子ともいうべき作者にとって、戦争はどのような季題・季語も及ばない大きなテーマだった。十八歳の「射ち来る弾道見えずとも低し」から、二十五歳の「いつせいに柱の燃ゆる都かな」を経て、七十二歳の「こちら日本戦火に弱し春の月」まで、生涯になした戦争俳句は数知れない。しかし、それらは単なる反戦厭戦の意思表示ではない。戦後日本のあり方への問いかけであり、また、同時に、俳句という表現の根本を問うものであった。

僕はこの本を読み進めるうちに気がつきました。この本は、作者の「創作意図」に縛られずに俳句を自由に読むことの楽しさを教えてくれるにとどまらないのだ。作品の取捨選択、そして個々の句の解釈を通じて、著者中村裕が「俳句という表現の根本」を問うている本でもあるのだと。