ケータイ小説の新しさはどこに?

「国語総合」の教科書に載っている港千尋による評論文「知識の扉―学ぶことの身体性」は、本がデジタル化されることによってモノとしての属性を失い、それが学びにおける身体性の喪失につながるであろうことを問題にしている。ケータイやパソコンばかりいじくっている高校生たちにとっては他人事ではないテーマのはずで、少しは興味を示してくれるかと思ったのだが、どうも彼らにはピンと来ないようだ。筆者の主張が必ずしもストレートに書かれてはいないところが生徒にとってわかりにくさの一因になっているかもしれない。まあ、評論文の授業はいつも苦労することになっているんだけれど…
僕の方は、この教材をきっかけに石原千秋ケータイ小説は文学か』を読んでみた。

ケータイ小説は文学か (ちくまプリマー新書)

ケータイ小説は文学か (ちくまプリマー新書)

といっても、この本はケータイ小説が親指一本で読まれることについては言及していない。筆者自身「ケータイは持たない主義」で、ケータイ小説も書籍版でしか読んでいないのだ。だから、ケータイ小説に新しい文学の可能性を見出そうとする好意的な姿勢を見せてはいるものの、その新しさをデジタル化との関係で論じようとはしない。あくまでもテキストそのものに即した物語論に終始する。だから「知識の扉」の参考図書として生徒に薦めるわけにはいかない。
かといって、この本を読んだのは失敗だったとは思わない。いつも石原千秋が見せてくれる切れの良い作品分析は、ここでも健在だ。例えば、次のような箇所。

誤解を恐れずに言えば、物語論的観点から見て、レイプは少女が物語の主人公になるべき資格を得るための通過儀礼なのである。だからこそ、彼女たちは「汚れた」というマイナスの形によって、他の登場人物とは決定的に差異化される。それを受け入れることができる男だけが、少女の彼氏に値する。その意味では、レイプされた少女は物語の中の「貴種」であるとさえ言えるだろう。だとすれば、彼女たちの性の遍歴はまるで「貴種流離譚」であるかのようだ。(中略)ケータイ小説には物語の古層がしまい込まれている。

ケータイ小説はなんと『伊勢物語』とつながっていた!
では一方、ケータイ小説の新しさとは何か。ここに簡潔に述べることは難しいが、強いてまとめると次のようになるだろう。


近代において性に関する言説がその人の真実を語るようになった。あらゆるものが「記号化」される現代においても性に関する言説だけは「特権的」に「記号化」されなかった。だからこそ現代文学は好んでそれを書いた。その「真実の言説」までもアイテムとして「記号化」してしまい(平たく言えば性をあまりにも安易に書きすぎてしまい)、性的な言説がリアリティーを失ってしまったところがケータイ小説の新しさだ。


正直言って、こうしてまとめておきながら僕にはよく理解できていない。ケータイ小説そのものを読んでいないのだから当然なのだろうけれど、わからないことの一つは次のようなことだ。
ケータイ小説の新しさは、石原千秋が最後に述べているように、その書き方の中にあるのだろうか。もしかすると、ケータイ小説は実はその稚拙な表現が結果的に時代そのものの新しさを映し出してしまっているのではないのか。つまりは、性に関する言説のリアリティーの喪失は、小説の中だけの出来事なのだろうか、ということだ。この答えは、テキストの読みだけからは見つからないのだろうけれど。