書評とガイドブック

mf-fagott2009-03-20

読みかけのまましばらく放置されている本が何冊かある。
池澤夏樹『読書癖2』もその中の一冊。

読み残してあった最後の方のやや固めの書評を読んでいたら、こんな一節に出会った。

書評の基本は紹介と評価だ。筆者は自分の人格を中和し、偏見を抑えて、客観的な読みの結果を提出することを期待されている。他ならぬぼくが一篇の小説を読んだことに意味があるのではなく、一般的な読者にいかなる読みを与える本であるかを語らなくてはならない。(一つの私的な読みとして―アントニオ・タブッキ著『インド夜想曲』)

本当にそうだろうか。別の所で「いろいろな新聞雑誌の書評のページに目を通す習慣はもう二十年以上も続いている。書評というものにずいぶん縁の深い日々を送ってきたわけだ。」(正しい書評欄)と書いている池澤夏樹の言うことに間違いはないだろう。もちろん、僕たちはある本についてのより「客観的」な評価が知りたくて書評に眼を通す。しかし、どんなに「人格を中和」し、「客観的」であろうとして書かれたものであっても、本について語る文章からその語り手の「人格」やら嗜好やらが見えてこないということはないのではないか。むしろ、読んで面白い書評というのは、書き手の個性が存分に現れた書評なのではないか。
本を旅に置き換えて考えてみよう。
これから旅しようとする土地についての情報を得たいとき、僕たちは旅行ガイドに目を通す。旅行ガイドは客観的であって欲しいと思う。そこに面白さは求めない。
旅行記と呼ばれるジャンルがある。これもまた旅先の情報を与えてくれるものではあるが、それは結果的にそうなるのであって、旅行記にまず求めるのはそれを読むことによって得られる楽しさ、面白さだろう。
さて、書評というのは、旅における「ガイドブック」に相当するのか、それとも「旅行記」にあたるのか。優れた書評というのはその両者のバランスを程よく保ったものであると言われるかもしれないが、僕は書評というのは「旅行記」のようなものであって欲しいと思う。僕が読みたいのは、書き手はその本をどう旅したのか、ということだ。
池澤夏樹が本について、旅について語る文章を読むのは楽しい。池澤夏樹が「読んだことに意味がある」と感じた小説は、僕にとってもきっと読む意味がある小説に違いないと思う。池澤夏樹が訪ねた地を、僕も訪ねてみたいと思う。