京極杞陽という不思議

京極杞陽という俳人の存在を知ったきっかけは何だったか、ただその名前とずいぶんシンプルな句を作る人だなあという印象だけがずっと消えずにいたのですが、昨年の『俳句界』10月号の特集の中のアンケートで、好きな「ホトトギス系」の俳人として京極杞陽の名前を挙げている人が少なからずいるのを見て、あらためて杞陽という人に興味が湧いてきました。
幸い勤務校の図書室の書庫に『京極杞陽の世界 (昭和俳句文学アルバム)』という本があるのを見つけたので読んでみました。

無花果とコスモスと石とトタン塀
まつぴるま河豚の料理と書いてある
甚平を著て働いて死ににけり

ずいぶんぶっきらぼうな書き方をする人です。

鯰小さく平たく短く見えにけり
音も無く仔馬来りぬ可愛らし
たんぽぽの咲く踏切を寿福寺

絵で喩えるならば、童画の趣。

春愁の東洋人でありにけり
春川の源へ行きたかりけり
しづかなる雪の気配に支配され
雪国に六の花ふりはじめたり

子供の絵にありがちなように、大きくもない画用紙にはまだ白いところをたくさん残しています。筆遣いも決して達者とは言えないのではないでしょうか。しかし、こういう絵を描くことが実は一番難しいのかもしれません。一枚一枚の絵からは、えもいわれぬ不思議な味わいがにじみ出てくるのです。

都踊はヨーイヤサほほゑまし
ほろほろとほろほろほろと落花かな

虚子に見出され、虚子への信仰を貫いたという杞陽は、その自在さにおいて虚子を彷彿とさせます。でも、どこか虚子とは違う、いや、僕が知る限りの他のどの俳人とも違う「何か」を持っている(あるいは「何か」が欠けているのか?)という印象を受けます。
もう少し杞陽のこの不思議に近づきたいと思うのですが、残念ながら今回読んだ『京極杞陽の世界 (昭和俳句文学アルバム)』では少々もの足りず、かといって他に手頃な本というのが今のところないようです。
明日発売の『俳句界』2月号は杞陽の特集だそうで、「魅惑の俳人」をどんなふうに見せてくれるのか、楽しみです。