短歌始めました。

短歌作りの参考になり、かつ読み物としても面白そうな本はないかと思っていたら、本屋の店頭でこんな本を見つけました。

この3学期は現代文の授業の中で、生徒に短歌作りを楽しんでもらおうと思っているんです。
なぜ俳句ではなくて、短歌なのか。
一言で言ってしまえば、俳句より短歌の方がサマになるから。これは僕の経験から言って、間違いありません。俳句は生徒には無理、というわけでもないのですが(「俳句甲子園」なんていうのもあるくらいですからね)、読書経験も語彙も乏しい大部分の生徒にとっては、俳句作りというのはなかなか難しい。
ところが短歌となると事情が違うようです。俵万智の出現というのも大きな要因のようにも思うのですが、彼ら彼女らは五七五七七の31音の中ではのびのびと自分の言葉を操ることができるようです。
『短歌はじめました。』の中で短歌と俳句の違いが話題になったとき、穂村弘はこんなことを言っています。

…短歌はキャラクターで書けるというか、その瞬間の心の状態が極端ならそれだけで作れてしまう面がある。だから早熟の天才ってのが現れやすい。…
…極端な話、どんな人でも一生のうち、何首かは優れた作品を残す可能性がある、それだけで歴史に残るような。それに対して、俳句はどんなに感覚がよくても、感情が高まっていても、それを生かすだけの技術や知識がないと本当にいいものは作れないみたいです。季語とか切れ字といった要素もあるし、大人向きっていうのかなあ……

「心の状態が極端」というのは例えば恋愛、失恋、病気、死、といったものに直面したときの状態であって、そうした個人的状況をストレートに作品化しやすいのが俳句よりも短歌であるならば、高校生にとってより馴染みやすいのはやはり短歌という表現形式の方であると言えるでしょう。
さて、この『短歌はじめました。』という本、実に面白い。
まず、沢田康彦が友人にファックスで題を送りつけて書かせたという素人の作品が面白い。
そして、それらの作品に対する穂村弘東直子のコメントがまた面白い。作品の良さを的確に掬い取って示してくれているだけでなく、こうしたらさらに良くなるということも付け加えているから、短歌を作ろうとする人にとっては最高のアドバイスになります。
「なるほど、そうか!」と思って線を引いた所から、そのほんの一部を抜き出しておきます。(いづれ穂村弘の発言より)

(31音という)音数を守るために苦労をするということが、何か詩的な扉を開く効果を生むというケースもある

言葉になる前の実感のようなものをそのまま表現できればすごくいい詩になるんですけど、これが意外に難しい。…ナマの感覚が、今までの自分の体験とか学習とか、そういうものに妨害されるんですね。

べたべたに本当のことを書いて、そのことで詩が浮上するということはよくあるんです。…短歌には短歌だけのべたべたな感覚と言うか、そういうものから浮上してくる力がある。

完璧なラブレターがその恋を成就させるとは限らない。
全く限らない。
その替わり、批評の目を潜ることによってそれはひとつの「表現」になる。

本当は、こうした発言は、具体的にどういう作品に対する評の中で出てきたものなのか、その作品と合わせて読まなければ意味はよくわからないわけで、もっとわかりたいと興味を持った方にはこの本、ぜひ読んで欲しいですね。俳句を作る人にとっても、楽しめる本だと思いますよ。
僕はこの本を読んで、短歌はじめました!(生徒に教える以上、自分も作らなきゃ、というのもあるんですけどね、ホントに短歌作りが楽しそうに思えてきちゃったんですよ。)
<続く>