「し」の問題



『俳句界』10月号の記事(松田ひろむ、「文法の散歩道」第七回〜助動詞「き」をめぐって2)について。
ここで筆者松田ひろむは、現代の俳句の中に文語助動詞「き」の誤用が多く見られることを指摘し、例えば次の句の場合、終止形の「き」であるべきところが連体形の「し」であるからすべて誤用であるとしています。


溝そばは群れて淋しき花なりし     稲畑 汀子
虚構をも喰ひものにする紙魚なりし   中原 道夫
畦を違へて虹の根に行けざりし     鷹羽 狩行
突風のしばし蒲公英見えざりし     岸本 尚毅
てんと蟲一兵われの死なざりし     安住 敦


そして、次のように言います。

芭蕉の時代には基本的には誤用はありません。それは芭蕉の時代には、その時代に生きていた言葉だったからです。


梅白しきのふや鶴を盗まれし


最後が「盗まれし」と連体形になっています。これは「や」を受けての係り結びですので、ここは連体形です。

ところが、『国語大辞典』の「き」の項を見てみますと、その「補注」(3)につぎのような記載があります。

連体形「し」が、係結びの場合でなくて文の終わりに用いられることがある。「源氏―夕顔」の「君は、御直衣姿にて、御随身(みずゐじん)どももありし」などは、「連体止」による詠嘆的表現、「徒然草―三二」の」「その人、ほどなく失せにけりと聞きはべりし」(中略)などのような中世以降の例は、口語動詞の連体形が終止形にとって代わったのと相応じて、単なる終止用法へと変化したものと考えられる。

また、『旺文社全訳古語辞典』にも

連体形「し」の用法は、後世、詠嘆・余情の表現でなく、単に文を終止するのに用いられるようになった。

とあり、『国語大辞典』と同様、上の「徒然草」の例を挙げています。
これらの辞典の説明を読むかぎり、松田ひろむ氏が「誤用」としたものは、必ずしもそうも言えないのではないかと思われます。つまり、中古の文章を規範とした文語文法の基本から外れていることは確かであるにせよ、「詠嘆的表現」もしくは「単なる終止用法」として許容の範囲にあるのではないかということです。
そもそも言葉というのは、「その時代に生きていた言葉だから」誤用はない、ということはなく、生きているからこそ「変化」し、その変化の過程の一断面を、ある基準に照らせば「誤用」ともなり、それが定着してしまえばもはや「誤用」とも言われなくなる、そんなものではないでしょうか。上に掲げたような錚々たる現代俳人たちが揃って句末に「し」を用いている現実は、それがもはや現代の文語文として定着してしまった(あるいは定着しつつある)ことを物語っているのではないでしょうか。
ただ、文法的に間違いであるか否か、という議論とは別に、終止形「き」と連体形「し」のどちらが作品にとってよりふさわしいのかという議論はありえるでしょう。(この方が、僕にとっては興味ある問題です。)


突風のしばし蒲公英見えざりき


もとの句と比べてどうでしょう。どちらがいいのか微妙なところだと思います。「詠嘆的表現」を意図してあえて「し」としたのか、あるいは「き」と「し」の語感を比較した上での判断だったのか、作者に伺いたいところです。