ニッポンの先生

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)』(講談社現代新書)を読みながらいろいろ考えていたら、昨日出会った鈴木先生のことを思い出してハッとしてしまいました。それは著者の一人、刈谷剛彦氏の次の発言がきっかけでした。

フィンランドでは、教員になるためには修士号を取らなければならないし、教壇に立つまでの教育実習や、実践的な教育にかける時間がすごく多い。いったん教師になってからも、研修などを受ける機会が十分に与えられている。…教師が教えることに特化できるという意味での専門性が、フィンランドの場合、非常に強いのかなという印象でしたね。

フィンランドの先生が『鈴木先生』を読んだら、日々生徒の問題行動に頭を悩ます鈴木先生の仕事は教員ではなくスクールカウンセラーだと思うかもしれません。なにしろ鈴木先生が授業をしている場面は一箇所も出てこないのですから。
でも、表紙には「中学国語二」の教科書を持つ鈴木先生の姿がはっきりと描かれています。それと、たったひとコマだけですが、鈴木先生が自宅で翌日の授業の準備をしている場面が描かれています。だから、鈴木先生が中学の国語の教師であることは間違いありません。
それにしても、鈴木先生が予習しているのが夏目漱石の『こころ』というのがちょっとひっかかったところでした。『こころ』が中学の国語の教科書に載っているって話は聞いたことがありません。つまり、『鈴木先生』の作者は、教師の本来の仕事についてはあまり関心がないようなのです。
僕がハッとしたというのは、『鈴木先生』に授業の場面がなかったということに今更ながら思い当たったということもありますが、そんな『鈴木先生』を、教育熱心で優秀な教師を描いた作品として抵抗なく受け入れてしまった自分自身の迂闊さに気づいて軽いショックを受けてしまったということなのです。
というわけで、鈴木先生に対する評価は教科指導の様子を見るまでは保留ということにしたいと思います。(もしかしたら、2巻には授業の様子が出てくるのかも…)