頭に詰め込んでおきたい日本語

俳句界 2007年 01月号 [雑誌]

俳句界 2007年 01月号 [雑誌]

『俳句界』1月号は、「『美しい国』の子どもたちは俳句をどのように履修しているか?」という特集を組んでいます(少々あざといタイトルなのが気になりますが…)。その中で某有名大学の付属中学校の入試問題で俳句を扱ったものを紹介し、それについて編集部がコメントを添えています。
それは、挙げられた五句の俳句について、「あとの〔感じ〕の中でよく合っているもの」を選べという問題で、たとえば
  たたかれて昼の蚊をはく木魚かな
は、あとの〔感じ〕の中から「自然のおかしさがある」を選べば正解。
  犬が来て水のむ音の夜寒かな
は、「底びえする寒さを感じる」を選べば正解。
編集部は、「たたかれて…」の正解については「木魚を叩くのは人為的行為であり、蚊が飛び出しただけで『自然』と言えるかどうか。すなわち自然という評価の概念に問題がある」と批判しています。
また、「犬が来て…」については、「夜寒」は秋の季語だが解答の「底びえ」は冬の季語なのだから「決定的におかしい」とばっさり。
その他にも多くの多くの問題点を挙げた上で、「そもそも多様な解釈が可能な俳句において、極端に単純化された表現を選ばせる設問設定自体が無理なのでは?」を疑問を呈していますが、僕も全く同感です。
この特集ではさらに、市販の問題集や実際に出題された公立高校入試問題等から俳句に関する設問を取り上げつつ、様々な問題点を指摘しています。
まさに、「悪問」のオンパレード。こんな問題を解かされる子供たちが気の毒になってきます。
(もちろん、入試問題の「悪問」は今に始まった問題ではありません。次の本は一読の価値があります。)
悪問だらけの大学入試 ―河合塾から見えること (集英社新書)

悪問だらけの大学入試 ―河合塾から見えること (集英社新書)



『文学界』(7月号)所収の「言葉をめぐる12章」の中で、荒川洋治は次のように書いています。

俳句の見地
 短歌・俳句はしっかりおぼえる。それだけでいいのではないかと思う。そこにあるその文字でおぼえる。からだの中に文字を入れる。

  遠山に日の当たりたる枯野かな(高浜虚子
  滝の上に水現れて落ちにけり(後藤夜半)
  秋風や模様の違ふ皿二つ(原石鼎)
  永き日のにはとり柵を越えにけり(芝不器男)

 いずれもすばらしい句である。
(中略)
 高校生や学生を見ていると、頭のなかに「いいことば」があまりはいっていないように思える。からからとはいわないが、なにもない感じがある。これからこうしようとかの生活設計はあるが、それは「意味」に属すること。俳句は「意味」ではない。いわくいいがたいいいものをもった、だだのことばなのだ。しかも、いちいち考えずにすぐにとりだせることばだ。そんなことばを十代のころから、あたまにつめておきたい。きっといいことがあるだろう。

僕はこの2学期に俳句の授業をやったのですが、期末試験では、「とにかく教科書の俳句を何度も読んでおけばできる問題を出すから」と言って、次のような単純な穴埋め問題を出しました。生徒たちの頭に「いいことば」を詰め込んでもらおうというねらいです。

問 次の空欄に当てはまる語を答えなさい。(□に一文字)

 1 土堤を外れ□□の犬となりゆけり
 2 黒猫の子の□□□□と月夜かな 
 3 □□□□槍投げて槍に歩み寄る
 4 葡萄食ふ□□□□の如くにて

一つの解釈を押し付けるようになってしまう選択肢から選ばせる問題より、この方がよほど生徒のためになるのではないかと思っているのですが、どうでしょう?
3学期はT先生の教えるクラスと合同で句会をやる計画をしています。生徒の句の中に、自分の句も忍び込ませておくつもりです。