我が家の新顔を紹介します。

mf-fagott2006-12-06

我が家の敷地に新しい仲間が増えていることに気が付いたのは、十日ほど前のことでした。
「これ、どう見ても八手だなあ…」
4年前に古い家を壊して家を新築した際に、ほとんどの植木はやむなく取り払ってしまったのですが、八手の木もその中の一つした。でも、このかわいい八手はもとの八手の位置とは3メートルくらい離れていますし、4年以上も空白の期間がありますから、おそらく「血」のつながりはなくて、鳥が運んだ種から生えて来たものなのでしょう。
ところでかの有名な土佐日記の最後に、およそ5年ぶりに土佐から京に戻った筆者が、自分の屋敷の荒廃ぶりを目の当たりにして、自分から願い出て預かってくれたはずの隣家への恨みをあからさまにするという場面があります。池だったところはじめじめしたくぼ地になり果て、その池のほとりにあった松は、一部分が欠けてなくなってしまっている。そこのとろ、原文では次の通りです。

 さて、池めいてくぼまり、水漬ける所あり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに、千年や過ぎにけむ、かたへはなくなりにけり。

そしてさらに、「今生ひたるぞ交じれる。」つまり、生えてきたばかりの小松も混じっていると続くのです。この「小松」は、いかに隣の人が庭の手入れをおろそかにしていたかを象徴すると同時に、筆者が土佐で亡くしてしまった娘を思い出させる、ありがたくないものとして書かれています。そして、娘をしのぶ気持ちが嵩じたところで

 生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ
(ここで生まれた娘は帰らぬ人となってしまったのに、戻ってきたわが家には、なんと悲しいことよ、亡き娘を思い出させるかのように小松が生えているではないか。)

と歌に詠むのです。京に戻った人々は、庭が荒れているのを見て誰もが「あはれ」と口にするのですが、僕は歓迎されずにこの世に生を受けた小さな松が「あわれ」に思えてなりません。手入れの行き届いた貴人の屋敷では、勝手に生えてきた松がちゃっかり庭の一員になっているなど、許されないことなのでしょうが。
我が家にはよく見ると、この八手の他にも、「君はいったいいつどこから入り込んだんだい」と尋ねたくなるような、名前のわからない木や草があちこちに顔をだしています。僕は基本的に、そういうやつはそのままにしておいて、いったいどんな大人に生長するのか楽しみに見守るようにしています。ある程度自然任せというのが僕の庭いじりの方針なのです。
でも、この八手、このまま大きくしてしまうにはちょっと厄介な場所に生えてきちゃったんだなあ。いずれ場所を移すとか、考えなければ…