「何が書いてあるか」vs「どう思ったか」

ユリイカ』9月号の「理想の教科書」という特集は、特に国語の教師にとってはなかなか興味深い内容です。

まず最初は『秘伝中学入試国語読解法』の石原千秋と『文章読本さん江』の斉藤美奈子、ともに舌鋒鋭い論客同士の対談(「道徳」よりも「リテラシー」を!)。期待にたがわず刺激的です。特に、国語教育が今まで子供に「どう思ったか」を問うことを重視してきたことを「内発性神話」と呼び、それが誤りであるとする石原千秋の指摘には僕もまったく同感です。「読書感想文」の害悪については随分前から言われてきたことですが、斉藤美奈子の次のような発言を読むと、改めて読書指導のあり方について考えさせられます。

「何が書いてあるか」を書くほうが「どう思ったか」より実は難しいし、何よりも生きた情報として機能する。読書感想文の「あなたがどう思ったかを書きなさい」という指示は、内発性神話そのものですよね。(中略)子供は「情報」を出したいのに、教師は「教訓」を求めるわけです。私が知っているある小学生は、あまりにも「どう思ったのかな」が続くので、最後に「感動した」という一言をつけてお茶を濁す知恵をつけた。小泉方式です(笑)。

「何が書いてあったか」に答えるには、作品とまともに向き合わなければならないのに対して、感想は実は作品の皮相的な理解でも書けてしまうということは、僕自身の今までの経験からもはっきり言えることです。(「どう思ったか」を問うことが常に無意味であるとは思いませんが…)
■追記
 今日(9/27)の「朝日新聞」の別刷り特集「be Extra BOOKS」の対談(森絵都×長嶋有)の中にも、次のような発言が見つかりました。

森  形にならない何かを感じて、無形のまま自分の中に放置しておく時間が大切。だから私は、子供に本を読んだ直後に感想を求めるのはどうかな、と思ってしまう。
長嶋 時間がたってこそ、効いてくるものだってあるしね。

「内発」的な「感想」が自分の中で熟成してくるまでには時間がかかるということですね。特に子供の場合。


斉藤・石原両氏の対談は、このほかにも入試問題、教科書採択、総合学習など、今教育が抱えている多くの問題に触れていますが、僕のような現場にいる人間にとっては「よくぞ言ってくれました」というありがたい発言の連発で、あっちこっちに線を引いてしまいました。

川村湊の「教室に放たれた『虎』」は、中島敦の『山月記』が今まで教材として長く採用されてきた経緯と、新たな読みの可能性について言及していて、これもなかなか読み応えがありました。次のような部分は僕にとって、今までの教室での読みの見直しを迫るものです。

 これは好きなことを勝手にやって、エゴイズムの「虎」となってしまった人間を肯定する物語として読むことも可能ではないか…
 『山月記』の最後の〝月に吠える〟の咆哮が、負け犬のそれのような惨めなものではなく、あたりを睥睨し、ひれ伏させるような堂々たるものであることは明白だ。

谷川俊太郎へのインタビュー(「教科書なんてないほうがいい!―国語教育にかけている事」)の中で印象に残ったのは、かつて文部省非公認の教科書『にほんご』を作ったことに触れての次の部分。

 フィリピンや中国の子どもが教科書を受け取って「こくご」と言われたときに、どういう気持ちになるだろうかと思いますよね。
 とにかく文科省がかたくなに「日本語」と言わずに「国語」としているのは不思議だよね。もうそういう時代じゃないと思うんだけど…

僕の教える教室にも、母語がフィリピン語の生徒、スペイン語の生徒、中国語の生徒がいて、日本人の生徒と一緒に「国語」を教えているのですが、この9月からはドイツ人の留学生も加わって、もう大変! 「国語」の先生には「国語」を「日本語」として相対化する目がどうしても必要になってきていることを痛感しています。

さて、「ユリイカ」9月号には他に、紅野謙介「『ゆとり』がほんとうに必要なのは教員である」、長谷川一「なにかについて知りたかったら本を書けばいい」など、どれもこれも面白い記事ばかりで、書きたいことは山ほどありますが、娘がパソコンを使わせろと言うのでこの辺で切り上げることにします。