二つの「愛国心」

前回取り上げた『やっぱり京都人だけが知っている』の「あとがき」に引用されている次の一節が気になっています。ちょっと孫引きさせてもらいます。

愛国心」という言葉で私が何を意味しているかといえば、それは世界中でもっともよいものと考えるけれども、他人に強制したいとは思わないような、ある特定の場所や特定の生活のしかたに対する強い愛情である。愛国心は、その性質上、軍事的にも文化的にも、守勢のものなのだ。―『ライオンと一角獣』ジョージ・オーウェル

 ここで言っている「愛国心」とは、次の「パトリオティズム」の方にあたるでしょう。

英語で愛国心にあたるものに、ナショナリズムパトリオティズムがあるが、二つはまったく異なる。ナショナリズムとは通常、他国を押しのけてでも自国の国益を追求する姿勢である。私はこれを国益主義と表現する。
パトリオティズムの方は、祖国の文化、伝統、歴史、自然などに誇りをもち、またそれらをこよなく愛する精神である。私はこれを祖国愛と表現する。家族愛、郷土愛の延長にあるものである。

これは最近読んだ『祖国とは国語』(藤原正彦著)からの引用ですが、著者はさらに我が国でこのナショナリズムパトリオティズムの二つを「愛国心」というひとつの言葉でくくってきたことが今日の「不幸」の始まりだったと言っています。
そもそも「日本という国」と言ったり、「お国なまり」「お国自慢」と言ったり、つまりは「国家」も「故郷」も「田舎」も同じ「くに」なのですから、「愛国心」の意味に幅が生じるのは当然です。
憲法教育基本法をめぐる議論の中で、この言葉に対する解釈の食違いがさらなる「不幸」の始まりにならなければいいが、と思います。しかし、どう解釈されるにしろ、これが「強制」されるべきものでないことだけは確かです。