深夜、「は」と「と」のビミョーな違いについて悩む。

前回の記事で、『国家の品格』の著者・藤原正彦が、「論理」が万能でないのはその出発点を選ぶのは「感性」だからで、その「感性」において日本人が優れていることを、俳句を引き合いに出して論じていると書きましたが、そもそも俳句というものは、「論理」によって成り立つことを極端に嫌うようです。
俳句の本を読んでいてよく目にするのは、この句は「理屈」だからダメ、「因果関係」だからダメという言葉です。
例えば、昨年の『俳句』11月号誌上で、「第51回角川俳句賞選考座談会」が行われていますが、その受賞候補者の作品「天の路混み合つてをり残る鴨(荻原都子)」について、長谷川櫂が「天の路が混み合っているから鴨が残っているという、理屈の句ですね。こういうのはちょっとだめだ。」と言ったり、現代俳句に多用されがちな接続助詞の「て」「ば」に関して宇多喜代子が「私は「何々すれば」の「ば」が嫌い。こうすればこうなったって、因果をね。」と言ったり、という具合です。これらの「理屈」「因果」は、「論理」という言葉に置き換えることができそうです。俳句に詠まれた二つの事柄が、「論理」でつながってはダメ、さらに言えば、頭で作った句はダメ、ということにもなります。
 『俳句』1月号の鼎談では、「凌霄の百の落花や地震来るか(小林篤子)」という句についての評価が分かれています。出口善子は「斬新な感じ」「ノウゼンの花はもちろん地震とは関係ないのですが、こういう美しいものを見たときの、美しいものの中にある不安要素みたいなもので予兆を感じる。そういう感性を私は評価したい」と、これを「感性」による句と評価する一方で、千葉皓史はこれを「因果を感じなくもない」から採らないと言っています。
つまりノウゼンカヅラの落花と地震との間に「論理」的な結びつきの匂いを嗅ぎとってしまうと、これは頭で作った句だからいただけない、という評価になってしまうのです。この句の場合は、なかなか微妙だと思いますが。
ところで、先ほどの「第51回角川俳句賞選考座談会」を読んでいて、僕にはわからなかったことがあります。「雛の間に妻と離れて眠りけり(広瀬敬雄)」について、長谷川櫂が、「〈妻と離れて〉となると理屈ですね」と言っているのですが、どうしてこれが「理屈」ということになるのか、今の僕にはどうも理解できないのです。「妻は離れて」だったら理屈ではないということのようなのですが…
「ビミョー」だと思いませんか?