読書会という幸福

読書会という幸福』(岩波新書)を読んだ。

著者は「あとがき」で、タイトルについて編集者から「読書会という幸福」ではアピール力が足りないのではないかという意見があったことを知らされたと書いているが、僕はこのタイトルに飛びついて購入した。(この記事のタイトルにもそのまま使わせてもらう。)

読んだ本についてブログに記事を書く、それについて誰かがコメントしてくれる(実際はなかなかコメントいただけないのだが)、これもささやかながら立派な読書会と言えるだろうけれど、やはり何といっても本好きが一堂に会して、お互い顔を突き合わせながら、読んだ本について語り合うのは楽しいにちがいない。苦労して読んだ難しい本ならなおさらだろう。

実は、高校の国語の授業でも、小説について生徒が活発に意見を出し合ってくれれば、教室が読書会のような楽しい場になる。ところがなかなかそうもいかないのは、そもそも授業に対して生徒が受動的だったり(そういう態度を育ててしまった教師に責任があるのだが)、後に控えている定期試験に向けて教師と生徒とで「正解」を共有しないといけないという「学校の事情」があったりするからだ。

学校で読書会をやるなら、国語の授業の中でなく、本書の著者も実践しているように、図書室主催のような形で放課後に実施するのが良いかもしれない。でも、生徒が集まるかな。調査書に活動実績として記載できるような形にすれば、総合型選抜で大学を目指すような生徒は参加するかもしれないけれど…いやいや、そうではなく、本について語り合うのは楽しいんだから、純粋にその楽しみのために集まってくる生徒がいるといいな。

感情は何のためにあるか

アンデシュ・ハンセンスマホ』(久山葉子訳、新潮選書)

売れた本が、自分にとっても価値のある本であるとは限らない。

多くの人がスマホの画面を一日数時間眺めているとか、スマホが様々な弊害を起こしていると知っても、そうだろうなと思って驚きはしない。短期間の間に人間の行動様式が大きく変化してしまったが、人間の脳はそれに適応できていないと言われても、それはそうだろうと思う。それは日々実感させられていることだから。
「毎日1~2時間、スマホをオフに」とか「スマホを寝室に置かない」などというアドバイスは、もともとほとんどスマホを使わない僕には意味がない。

この本から得た僕にとっての最大の収穫は、感情の働きについて知ったことだ。
感情は人間を生き延びさせるための行動に導く働きがあるのだという。

感情というのは「自分を取り巻く環境への感想」ではない。周りで何が起きているかに応じて、身体の中で起きる現象を反応としてまとめたものだ。それが、私たちを様々な行動に出させる。

脳は、生き延び、遺伝子を残すために今何をするのが最善か、という問いに常に感情という形で答えようとしている。恐怖は、外敵から逃げる、あるいは攻撃するために最大限に力を発揮できるような心身の状態を作り出す。

確かに、人にとって重大な問題は、過ぎたことをどう思うか、ではなく、次にどう行動するかだ、脳はそのためにある、と言われてみれば、なるほどと深く納得する。

言葉と思考

今井むつみ言葉と思考』(岩波新書

本書を貫いているのは、使用言語が異なれば認識や思考の仕方も異なるのか、あるいは、言語の異なる話者同士が理解しあうことは可能なのか、という問いだ。
様々な実証実験を通しての結論は、言語の違いが認識の違いにつながる事例もあるし、そうでない事例もある、という「どっちつかず」ともいえるものだが、これは誠実な答えと評価すべきだろう。
著者は言う。

言語と思考の関係を考える場合に、もはや、単純に、異なる言語の話者の間の認識が違うか、同じかという問題意識は、不十分で、科学的な観点からは、時代遅れだといってよい。今私たちがしなければならないことは、私たちの日常的な認識と思考――見ること、聞くこと、理解し解釈すること、記憶すること、記憶を思い出すこと、予測すること、推論すること、そして学習すること――に言語がどのように関わっているのか、その仕組みを詳しく明らかにすることである。(214㌻)

言葉と思考の関係を追究していくと、一つの問いがまた次の問いを呼び寄せる。奥が深いのである。

現実の実在性に届く眼

今、現代文の授業で、野矢茂樹の「言語が見せる世界」という評論を読んでいるのだが、ここで説かれていることの多くが、俳句についての言説と重なってくることに気づいた。
「言語が見せる世界」の中にはキーワードの一つとして、「プロトタイプ」という言葉が出て来る。これは、あるものごとについて語られる普通の事柄の全体であると説明される。これは「通念」、あるいは「典型」「概念」という言葉で置き換えることも可能だ。(筆者はこれを「典型的な物語」とも呼ぶ。)我々が物事を知覚するのは、この「プロトタイプ」を通してであることが多い。たとえば、「鳥」というものをとらえようとするとき、「羽と嘴を持ち、空を飛び、卵を産み、鳴き、ある鳥は水面を泳ぎ、…」といった通念をそこに持ち込む。
ここで俳句に話題を転じれば、思い浮かぶのは「季語(季題)」、あるいは季語の「本意」という言葉である。季語を知るとは、季節の景物の「プロトタイプ」を知ることである。「花」にしても「月」にしても、我々はそこに「典型的な物語」、つまり季語の本意を読み込む。これは俳句の約束事なのだ。この約束事が、極端に短い俳句を詠み、読むことを可能にしている面がある。しかし、季語に凭れかかるのみでは、通念的な句、あるいは類想句の量産という弊に陥る。では、そうならないためにどうしたら良いか。
野矢茂樹は「現実は常に、典型的な物語をはみ出している」と言い、さらに次のように続ける。

ここには、私が「実在性」ということで意味したいと考える二つの側面がある。一つは典型的な物語を超えて際限なくディテールを供給するという側面、そしてもう一つは典型的な物語から典型的でない物語へと逸脱していくという側面である。概念が開く典型的な物語には、無限のディテールも、意表を突く驚きも、全く欠如している。目の前のものに取り立てて関心を抱いていないのであれば、私はただその典型的な物語の世界の内にとどまっているだろう。しかし同時に、そんな典型的な物語を食い破り、そこからはみ出してくる実在性も、我々はたしかに受け止めているのである。世界を語り尽くすことはできない。そして何よりも、世界は私を驚かし得る。それゆえ、典型的な物語の世界は、私にとってあくまでもスタート地点にほかならない。典型的な物語とは、言語によって課される「初期設定」であると言ってもよいだろう。私はまず、言語が見せる相貌の世界に立つ。そして、世界の実在性に突き動かされ、新たな物語へと歩を進めるのである。 

これを俳句に当てはめれば、「通念的な句を作り続けないために、現実の持つディテールに関心を持とう。典型から逸脱したもの、典型からはみ出した実在性に目を向けて、今までの俳句が言わなかったことを言おう」ということになるだろう。季語とその本意を知ることによって俳句の「スタート地点」に立つことはできる。しかし「初期設定」のままの季語から発想しているばかりでは、いつまでもスタート地点に立ち続けねばならない。
しかし、「新たな物語へと歩を進める」ことは簡単なことではない。僕にとっても通念という縛りから自由になることは積年の課題だ。

さて、『半澤登喜惠句集 耳寄せて』は「課題」に取り組むにあたって、良い手本になる。

  海月見て墓の要らない話など

海月を見ていることと、墓の要らない話などしていることに、何の因果関係もなさそうだ。これこそ現実の一場面。

  子の降りてぶらんこ重くなりにけり

作者は力学的常識からも自由である。自分の感性の方に信頼を置いているのだ。

  図書館に薄荷の匂ふ春休み

図書館で薄荷の香を感じたことがあるという人は稀だろう。作者はそれを逃さない。

  弔電を送り干梅裏返す

弔電を送ることと干梅を裏返す作業が連続した動きになる必然性は見つからないが、現実においてはそれはあり得ることだろう。

  秋暑し車庫で宿題仕上げをり

なにも車庫で宿題をやらなくても、と思うが、なにか特別な事情があってこういう事態になったのだろう。(暑いから涼しい車庫に逃げ込んだと解釈しては、この句はいただけなくなる。)

  反戦の落書秋の女子トイレ

トイレの落書とは淫猥なものというのは通念に縛られた思いこみなのかもしれない。

  葉桜や騒がしきバス火葬場へ

火葬場へ向かうバスはいつもしめやかであるとは限らない。

 

これらは、ありがちなことを言い留めた句ではないだけに、必ずしも読み手の共感が得やすい句ではないと思う。しかし、作者の眼は、確かに現実の「実在性」に届いている。

生き方の多様化に向けて

本田由紀の『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書)を誰かが推していたので、読んでみた。

著者の主張を大まかにまとめると、次のようになる。
日本社会は諸外国と比べ、垂直的序列化(人を「能力」という物差しで縦方向にランク付けする)と水平的画一化(皆が同質であることを強いる)の傾向が著しい。
一方で、水平的多様化(様々な生き方の許容)の度合いが低い。それが社会の閉塞感(息苦しさ、生きづらさ)につながっている。
解決に向けては、垂直的序列化が凝縮して生じている高校を、学科を多様化するなどして改革する必要がある。また、水平的画一化を脱するためには、特定の資質・態度を教育の目的として要請する教育基本法を、個人の内面の自由を宣言する内容へと再改定する必要がある。
そのような方向に社会を変えていくためには、(以下、本書より引用)

戦前の「教化」の体制をよりハイパーな形で復活させようとしている、自民党政権およびその背後にある保守団体の姿勢を根底から転換させるか、あるいは彼らを政権の座から下ろすか、いずれかが必要であるということである。
様々に異なる生き方を尊重し、誰もが可能性を発揮し安心して生きて行けることを目指す水平的多様化という方向性は、それほど社会全体の本質的なあり方と深くかかわる、重要な理念であり目標なのである。(p233)

政権交代が再び実現したとしても、今の社会の閉塞感を打ち破ってくれるだろうなんて、期待できるのかな…

草の味

嬉しい郵便物が届いた。松野苑子さんの3冊目の句集『遠き船』。

いつものように、まず最初は、とにかく最後まで読み通す。次は、好きな句、気になる句に丸印をつけながらもう一度最初から読む。(句集を読んでいて楽しいのはいつもこの時だ。)今回印がついたのは約20句。最終的にはベスト10句を選ぶというのがルールなので(誰が決めたんだ?)、半分に絞るべく、拾い出した句を何度も読み返す。その時、僕はどういう基準で取捨選択しているのだろう。厳選10句を眺めながら、後付けの選択基準を考えてみる。

「僕自身が今まで見逃していた、つまりこれまで僕の周りに存在したことのあるはずのありふれた物事の中から、小さな「詩」を見つけ出して閉じ込めている、言葉の結晶」

というわけで、選んだのが次の10句。

 蚊を打てば聖書の中の一文字に

 紙雛のなかなか立たぬ一つかな

 摘草のときどき横の姉を見て

 真つ向に富士や西瓜は立つて食ふ

 笹鳴や如雨露の中の昨夜の雨

 オルガンの煙のやうな音長閑

 草笛に草の味してまだ鳴らず

 鼻先を感じて湯ざめ始まれり 

 接写してパンジーだんだん怖くなる

 蟻の巣の穴の奥まで空気かな

特選を一句だけ選ぶとしたら、「草笛に…」か「鼻先を…」か、迷う。それにしても(こういうことは珍しいのだけれど)、句集の帯にある作者による「自選十句」と、僕が選んだ句は、一句も重なっていない。本当にこの句集を鑑賞できるようになるには、僕自身がもっと修業を重ねないといけないんだろうな。

現代短歌の多様性

万葉集』なら、「素朴、おおらか、ますらをぶり」、『古今和歌集』なら、「優美、理知的、たをやめぶり」というような言葉で、その時代の作品群の歌風を言い表すことが定着しているが、「現代短歌」の時代を後世に振り返ったとき、どういう言葉でその特徴を言い表すことになるのだろうか。あまりにも多様な作品群にかぶせる言葉を見つけることは不可能なのではないだろうか。


本書は「昭和二〇年代後半におこった前衛短歌運動を境目とし」、それ以降を「現代短歌」と括っているが、その中には、

冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ   佐藤佐太郎

もあれば、

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいわみしい   穂村弘

もある。実にバラエティーに富んでいて、そこが現代短歌の興味の尽きない点であると思う。しかし、筆者も言うように、現代の作品というのは「歴史という時間の濾過作用をうけていない」。この先何十年、何百年という年月を経る中で、あるものは淘汰され、残された作品群にかぶせる言葉がおのずから表れてくるということもあるのかもしれない。