嘘発見器

清水町先生 (ちくま文庫)

清水町先生 (ちくま文庫)

  • 作者:小沼 丹
  • 発売日: 1997/06/01
  • メディア: 文庫
 

 小沼丹が終生の師と慕った清水町先生、すなわち井伏鱒二の、人と作品について愛情を込めて綴った随筆集。井伏鱒二の作品理解への最良の手引きであると同時に、小沼丹の井伏譲りの軽妙洒脱な文章を楽しめる一冊。久々に井伏の作品を読みたい、小沼丹の文章をもっと読んでみたいと、他の本に手が伸びること請け合い。(…と書いてきて、型通りの言い回しに我ながら恥ずかしくなる。井伏はこういう文章は書かない。)

某日、井伏さんが病院で心臓の検査をして貰つたことがあつた。心電図をとることになつて、身体のあちこちに電極とか云ふ黒い吸盤みたいなものを附けられた。それを附けられたら、井伏さんは、
――嘘発見器ですか?
と医者だか看護婦に訊いたのださうである。 (解説「現代の随想」)

  電車の中でここを読んでいて、思わず吹き出してしまったが、幸いマスクをしていたのでごまかすことが出来た。

池上先生から仏教を学ぶ

久々に池上彰先生の生徒になった。

今回の講義のテーマは、仏教。池上先生の守備範囲の広さには驚かされる。池上先生の著書を読み尽くせば、世の中の大切なことは一通り勉強できるのではないかと思う。 

池上彰と考える、仏教って何ですか?

池上彰と考える、仏教って何ですか?

 

 前半は、「仏教を知ることは、己を知ること。そして日本を知ること」という著者が、 仏教とは何かをわかりやすく解説。仏教の発生から、日本への伝来、鎌倉仏教の勃興、檀家制度の確立から現在の葬式仏教へと至る道筋が理解できる。

後半は、ダライ・ラマ法王との対談。仏教で人は救われるか(被災の悲しみから抜け出すことはできるのか、自分の将来や死に対する不安や恐怖を克服することができるか、など)という問いを法王に投げかける。

法王の答え…

死の恐怖を軽減するために何よりも大切なことは、私たちが生きているこの人生を意義深いものにするということです。意義ある人生とは、他の人たちを助けるということであり、たとえそれができなくても、少なくとも他の人たちに害を与えるようなことはしない、という実践をすることです。そのように生きることができれば、あなたの人生はより意義のあるものとなります。意義ある人生を過ごすことができれば、死に直面したとき、たとえ死への恐怖があったとしても、後悔すべきことはほとんどありません。後悔することがなければ、死を恐れる気持ちもずっと少なくなります。

 

仏教の勉強をしようと思って最初に読む本がみうらじゅんの『マイ仏教』でも良いと思う。

マイ仏教 (新潮新書)

マイ仏教 (新潮新書)

 

  「仏像を怪獣の延長として受け取り、両者に共通する異形の佇まいにグッときた」という小学生が、一人でお寺に足を運び、瓦を集め、御朱印をいただく。仏像の写真を撮り溜めて作った「仏像スクラップ」は、全七巻。

お寺の息子として生まれなかった自分を不幸とさえ思い、住職になるために、中高一貫の仏教系の学校に入学。「あの仏像が凄い。やっぱり天平仏はグッとくる」といった話題でクラスのみんなが持ちきりのはずだと信じていたのに、期待は外れ、いかにツッパるかで頭の中がいっぱいのヤンキーたちで学園は大荒れだった。当時の不良の髪形はパンチパーマでお釈迦さんと同じ…

体験的仏教入門。笑えます。

 

国木田独歩の代表作は?

大学入試にしばしば出題される、「国木田独歩の代表作を次の選択肢の中から選びなさい」、という問題の答えがほぼ例外なく「武蔵野」である、というのは、不思議と言えば不思議。

短編小説作家、独歩の本領が発揮された作品を選ぶとしたら、「酒中日記」か、「運命論者」か、「春の鳥」か、「竹の木戸」か。それとも芥川が「調和のとれた独歩」と賞した「鹿狩」か、漱石が面白く読んだという「巡査」か。

いずれにしても、独歩の代表作を次から選びなさいの答えが、「鹿狩」とかだったら、受験生は怒るだろう。しかし、独歩の代表作を「武蔵野」と答えられたとして、そのことにどれほどの意味があるか? 

武蔵野 (新潮文庫)

武蔵野 (新潮文庫)

 
牛肉と馬鈴薯・酒中日記 (新潮文庫)

牛肉と馬鈴薯・酒中日記 (新潮文庫)

 

 

人間の真実を描く掌編小説

大西巨人『日本掌編小説秀作選』(上・下)

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日本文学の精華を集大成したという趣の二冊だが、面白い作品を集めてみたらこうなりましたではなく、それらの作品群を貫いて一本の筋を通そうという編者の意図が強く感じられる。つまりは大西巨人という人間の個性が強く前面に表れたアンソロジーである。
作品の多くは、人間が秘め持つ暗部を容赦なく炙り出すといった体のものだ。美とか、感動とかではない、人間の負の側面に光をあてたような作品が多いと感じる。人間の真実から目をそらすな、というのが編者が通そうと意図した一本の筋であると、僕は読んだ。

 

詩人、蕪村

萩原朔太郎の「郷愁の詩人 与謝蕪村」を読んだ。これは詩人による俳句論としてなかなか面白い。また、朔太郎が自らの詩において何を追い求めたのかを探る手がかりともなる。

今や蕪村の俳句は、改めてまた鑑賞され、新しくまた再批判されねばならない。僕の断じて立言し得ることは、蕪村が単なる写実主義者や、単なる技巧的スケッチ画家ではないということである。反対に蕪村こそは、一つの強い主観を有し、イデアの痛切な思慕を歌ったところの、真の抒情詩の抒情詩人、真の俳句の俳人であったのである。ではそもそも、蕪村におけるこの「主観」の実体は何だろうか。換言すれば、詩人蕪村の魂が詠嘆し、憧憬し、永久に思慕したイデアの内容、すなわち彼のポエジイの実体は何だろうか。一言にして言えば、それは時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々(せきせき)しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった。実にこの一つのポエジイこそ、彼の俳句のあらゆる表現を一貫して、読者の心に響いて来る音楽であり、詩的情感の本質を成す実体なのだ。

以下、具体的に句を取り上げつつ、蕪村の句の和歌(とりわけ「万葉集」)あるいは近代西洋詩との親近性、芭蕉との資質の違い、などについて論じ、蕪村の句の魅力と独自性を浮かび上がらせている。

読んだ記録、読んだ記憶

このブログでは、本を読み終えたらその覚書として(かつて書いていた読書ノートの代わりとして)その本についての駄文をしたためる、ということを続けて来た。ごく少数ながらアクセスしてくれる人もいるし、何よりも自分のための読書記録として、やめるわけにはいかない。検索機能があるので、ブログを始めて以来、自分が誰のどんな本を読んできたか、すぐに確認できて、実に便利なのだ。

ところが、一応のルールとして、本一冊丸ごと読み終えたところで書く、と決めているから、たとえば短編集の中のいくつかを読んだという場合や、真ん中辺まで読み終えたところで中断したままになっている本については、基本的には書かない。となると、読んだことを忘れてしまうことにもなりかねない。記録を残す意味では「本」単位ではなく、「作品」単位でこまめに書き残した方が良いのかもしれない。

最近はつまみ食い的な読書がかなり増えている。というのは、新型ウイルスのせいで外出できない分、逆に授業関連の文章に目を通す時間が確保できているからだ。雑務に追われていたころはあれほど欲しかった教材研究の時間が、皮肉にもウイルスのおかげでポンと生まれて来た、という感じだ。そんなわけで、教科書とか問題集とかに採られている小説や評論に関連した文章、入試では定番の作品だから生徒には「作者名、覚えておけよ~」とか言っているけど、実は自分がどんな話か知らない(あるいは、昔読んだかもしれないけど忘れてしまった)小説などを、あれこれ読んでいる。

小説では、

 森鴎外阿部一族

 国木田独歩「武蔵野」「忘れえぬ人々

 室生犀星あにいもうと

 開高健「裸の王様」

 清岡卓行アカシヤの大連

など。詩では、

 萩原朔太郎月に吠える

など。

やはり評価の定まっている作品というのは、読みごたえがある。生徒にも読んでもらいたいと思う。そんな作品でも、読んだという記録を残しておかないと、記憶はだんだんと薄れていってしまいそうな気がする。