ゴッホを読む

 僕がこれまで読んだ、「絵」について書かれた本の中では、これが一番面白かった。筆者の批評眼は鋭いし、語り口も読者を退屈させない。名エッセイとの評価もあるようだ。僕は古本屋で見つけた単行本を読んだのだが、今は文庫になっている。内容的に古びた部分はあるにしても(初版は1976年)、読み物として魅力的なこのような本は文庫にして残す価値がある。

絵とは何か (河出文庫)

絵とは何か (河出文庫)

 

  「絵とは何か」という問いに答えることは、ゴッホを理解することである、と筆者は考えている。しかしゴッホを理解するとは、どれほどの難事業であることか。筆者は言う。

絵は見られると同時に読まれるべき物である。『カラマーゾフの兄弟』をたった一日で読了するのが不可能なように、ゴッホの《烏のむれ飛ぶ麦畑》を数分間で読むことはできない。
しかし、一人の画家が、それもゴッホのように異例の画家が精魂こめて描いた絵を、なぜ、どうしてと絶え間ない質問をくりかえしながら読まなくては、作品を理解することにはならぬだろう。(ゴッホの遺書)

  「絵とは何か」という問いは、実に重い問いなのである。

緊急出版!?

 こんな本が「緊急出版」されたと知って、さっそく読んでみた。

  前の記事の続きの話になるわけだけど、本当にこれからの「国語」教育、どうなるんだろう? そしてどうするべきなのか? これはやはり目下の大問題だと思う。

 今回の「改革」に対して悲観的な意見ばかり言っていても仕方がないし、批判したところでもう決まってしまっている部分は今更どうしようもない。現場の人間としてできることをやっていくしかない。

 編者の紅野謙介は「残念ながら、この改革は百パーセント、失敗する」と言い切る。

それも、失敗だと自覚するのならば可能性はまだある。だが、失敗であることを自覚せず、やりすごしたままでは、だらだらと無限の失敗の道が続くことになる。
どこで踏みとどまるのか。空虚な器にどのように実質を込めるのか。
国語教育に関わる人たち、文学者や文学研究に関わる人たちがいま、こうした問いを突き付けられている。紅野謙介「いま『国語』の教育で何が起きているのか」)

  しかし、「問いを突き付けられている」はずの当事者の現状はこうだ。

多忙を極める現職の高校教員の中には、具体的に何が・どう変えられようとしているか詳しく知るだけのゆとりがない、関心を持つ余裕さえない、という人たちも少なからずいるのではないか。新しい「国語科」を推し進める側も、そうした現場の諦めと思考停止につけこもうとしている節がある。 (五味渕典嗣「新しい「国語科」は何が問題なのか?」)

  僕たちは重い「問い」を突き付けられていることを自覚し、「思考停止」に陥らないように努力を続けるべきなのだ。

新学習指導要領は、もはやどんなに批判しても変更することはできない。したがって今後は、その枠組みの中で子どもたちに身につけさせるべき「読解力」をどのように構築していくか、その中でPISA型読解力をどのように組み込んでいくのかという思考が求められている。大橋崇行「『PISA型読解力』に結びつく国語教育・文学研究」)

  その「思考」のための一助となるに違いないこの本が、多くの教師に読まれるとよいと思う。国語で「論理」を学ぶこと、「書く」ことの教育のあるべき姿、などについて考えるための具体的な提言、ヒントが満載だ。

文芸誌も黙ってはいない!

文芸誌が教育の特集をしている。それはそうだろう。文科省が打ち出した大学入試改革、高校の新学習指導要領の国語に関する部分に対して、文学軽視との批判が噴出している。国語教育関係者だけでなく、ブンゲイに関わるヒトたちとしても、黙ってはいられないという気分だろう。いや、文芸誌が売れなくなるとか、そんな話ではなく、今回の教育改革、とりわけ国語教育に関するそれは、中身を知れば知るほどそれで大丈夫なの? と不安になるばかり。

はっきり言って、新指導要領がスタートするときは、僕はもう教師という仕事を続けているかどうか、わかりません。完全に引退しているかもしれない。若い先生たち、大変だね~なんて、高みの見物を決め込むことだってできる。学校で文豪の作品が読まれなくなろうが、新潮文庫の『こころ』の売れ行きが下がろうが、関係ないもんね。僕は僕で読みたい小説を楽しんでいればいいんだから。でも、新指導要領が施行されたら、学校はどうなるのか、気にならないはずがない、いや、難しい課題を背負わされている苦闘する現場に首を突っ込んでみたい気持ちは、大いにある。そのくらいの元気はまだ残っているんですよ。

というわけで、「すばる」が「教育が変わる、教育を変える」という特集を組んでいるのを本屋で見つけて、つい買ってしまった。 

すばる 2019年7月号

すばる 2019年7月号

 

 インタビュー「変わる国語教育、なくなる文学―内田樹小川洋子茂木健一郎に訊く」より…

(内田)どこまで作品の底が知れないか、どこまで作家の意図がなぞのままか、それが楽しいわけじゃないですか。僕は「テキストから引き出し得る愉悦の量を最大化できる能力」のことを「読解力」と言うべきじゃないかと思うんです。だとしたら、「読解力」というのは人と比べるものでもないし、正誤を問うものでもない。

 

(小川)教科書で出会った文学が記憶に残るというのも、たぶん理性とか論理じゃないところに刻まれるからでしょう。出会い頭のようにぶつかって、理由もわからないまま、体感として残る。

 

(茂木)国には期待できないので、なるべく国と関係ないところで学びを守っていくしかないと思っています。たとえば私塾とかで守っていくしかないんじゃないですか。もし高校の授業で今後文学作品をやらないというんだったら、高校生に文学作品をリコメンドして、文学書を読む私塾をつくるとかですね。

みなさん、「改革」には否定的。

今日の新聞の広告で知ったのだけれど、「文学界」9月号でも「文学なき国語教育が危うい」という特集を組んでいる。同じような内容が予想されるけれど、こちらも読んでみるかなあ。 

文學界 9月号

文學界 9月号

 

 

詩の中の算術

 俳句の中に「こうだから、こうだ」という因果関係を持ち込むことは、避けるべきだとされる。うっかりそういう句を作ってしまうと、「説明」だとか「理屈」だとか言われて、批判されるのが落ちだ。
 詩についても、同じことが言えるのだということを、三好達治の『詩を読む人のために』(岩波文庫)を読んでいて知った。


   家             丸山薫


 母の顔に肖(に)たボンボン時計が掛けてあり


 それを見上げて 子供達はみんな大人になつた


 部屋数の余つた邸から 下婢達はおひおひ暇をとつて行つた


 そのころ 父はもう夕陽のやうに話さなくなり


 いつのまにか庭の鶴も歿(みまか)つた

 この詩について、三好達治はこう述べる。

第二行をうけた第三行はいささか理に堕ちて散文的なきらいがある。子供たちがおいおい世間へ出ていって「部屋数の余つた邸から」というのが、いわば算術だからその点少しおかしいのである。

 なかなか厳しい指摘だと思う。ここに「算術」が紛れ込んでしまっていることに気づく読者は多くないだろう。『詩を読む人のために』には批評家としての三好達治の鋭敏な感覚が随所にみられる。

詩を読む人のために (岩波文庫)詩を読む人のために (岩波文庫)

 

 

島尾文学と夢

 島尾敏雄の『過ぎゆく時の中で』というエッセイ集が、本棚の中で眠っていた。昭和58年発行。たぶん教材研究のために買ったのだと思う。「横浜生まれ」という文章に印が付いている。「横浜出身の作家だよ~」とか言って、生徒の興味を惹こうとたくらんだのだろう。その作戦は空振りに終わったにちがいないのだが。そもそも教科書の作品は何だったんだろう?

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 ところで、この中に「夢について」という文章(講演筆記)がある。その中で島尾敏雄はおよそ次のようなことを言っている。


 私は小説を書きながらも、自分の想像力を非常に貧しいと考えている。貧しい想像力で自分の経験の中からイメージを掘り起こしていかなければならない。その経験を、目を覚ましている現(うつつ)の時の経験の他に、夢の中の経験もあると考えてみると、そこまでイメージをつかむ「狩猟場」を広げてもいいんじゃないか、ということになる。夢というのは、現でいるときよりはずっと自在だ。それは自分の文学に、ある解放と豊かさをもたらしてくれる気がする。


 この著作の中には、他に「夢と私」「夢見と行歩」「夢の綴り」と、夢に言及する文章が多く含まれていて、島尾文学と夢の関りを探る手掛かりを与えてくれる。

夢の手法

 島尾敏雄の『夢の中での日常』を読んだ。買ったのは学生時代か、勤め始めてすぐの頃か。すっかり日焼けして、ページの奥の方まで色が変わってしまっている。最近は、そんな本を本棚から引っ張り出してきて読むことが多い。読むべき本は、新刊書店の棚よりも、自宅の本棚の中にこそ多く潜んでいる、なんてね。

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 森内俊雄による「解説」の次の一節は、島尾敏雄の本質の一面を鋭く言い当てていると思う。これは島尾文学批判であると同時に、島尾文学擁護論でもある。

 氏の小説世界の構築は「私」と、あくまで「私」の延長半径の「円」のうちにとどまる。おろかしいことを言うようだが、ある批判を先取りしたい必要があるのであえて言うことにする。氏が戦争体験に題材をとった一連の作品に国家意識の欠落を見、病妻物に妻の発狂のもとになった「私」の「あやまち」の曖昧な伏せ方に他者もしくは社会、「私」の外なる世界への関係意識、倫理の希薄を見るだろう。これも通俗の見解に従えば、思想とは他者との関係意識の客観性である。とすれば氏の小説にどこかいびつなところがありはしないか。氏の夢の手法も現実に対抗して思想を形成することへの回避ではないのか。

 小説が夢を描くのは、現実からの逃避姿勢の表れであるとの見方があるんだな、なるほど。しかし、夢の中にこそ人間の真実を暴く秘密が隠されているという考え方もあるはずだが、その点について、この解説は深くは掘り下げていない。「解説」は次のように続く。

だが、文学の思想、倫理とは何だろう。小説に人生相談の回答のたぐいを求めるあやまちをおかしてはならない。答えは簡単だ。ある作品がどうであれ読み手に感動を与え、慰め、生かしめさえするならば、それが文学の健康、思想、倫理というものだ。

 僕は今まで読んできた島尾作品から、何らかの感動や慰めを得たことはあっただろうか。