文学 の検索結果:

大磯界隈歴史・文学散歩

大磯駅から徒歩10分くらいで、島崎藤村旧宅に着く。 萩の枝で作られた下地窓。 大正硝子の窓に、庭の新緑が写る。 大磯で最期を迎えた藤村、ここに眠る(地福寺) 鴫立庵。ここは日本三大俳諧道場の一つ。(他の二つは、京都の落柿舎と滋賀の無名庵)今でも頻繁に句会・歌会が行われているそうだ。 創業明治24年の「新杵」で西行饅頭を買い、後半に向けて腹ごしらえ。 この後、大磯に多く残る横穴墓群を見て回り、さらに茅ヶ崎市美術館で「藤間家所蔵、文人名主由縁浮世絵」展を見学。充実の一日。企画し案…

鈍行列車の旅+イチゴ狩り+文学散歩

千葉県の成東へイチゴ狩りに行ったのは、今日が二度目。ここは青春18切符を使った日帰りの旅をするのにちょうどよい場所なのだ。成東の駅から徒歩圏内にイチゴ園がたくさんあって、いかにも房総らしい田舎の景風景の中で、のんびりとした一日が過ごせる。 今回は、イチゴ狩りの後で、山武市歴史民俗資料館に立ち寄った。伊藤左千夫の生家に隣接して建てられた立派な建物で、二階に伊藤左千夫の遺品や関連資料が常設展示してある。 資料館の前には、有名な「牛飼いが歌よむ時に世の中のあたらしき歌大いに起こる」…

子供を描いた大人の文学

蕾 (百年文庫)作者: 小川国夫,プルースト,龍胆寺雄,Marcel Proust出版社/メーカー: ポプラ社発売日: 2011/04/01メディア: 単行本 クリック: 3回この商品を含むブログを見る龍胆寺雄という未知の作家の『蟹』。 昭和初期という時代への郷愁か、誰もが通った子供時代への郷愁か、この作品が読者を惹きつけるのは、そのどちらのせいでもあるだろう。 そして、細密な描写が生み出すリアリティ。 子供を描いた大人のための作品だ。 久々に読む小川国男。 『心臓』には、ナ…

現代美術の諸問題をめぐる思考

…浜急行の線路下にあって、頭上ではひっきりなしに電車の走る音がする。 池田満寿夫の著作は見つからなかったが、『模倣と創造』の中で再三取り上げられているデュシャンを特集した『芸術新潮』のバックナンバーがあったので買って来た。デュシャンの概略を知るのに格好の、面白い本だ。ちなみに、『模倣と創造』は、この夏に行った小樽文学館の中の、誰でも自由に持ち帰れる古本のコーナーにあったもので、志として100円だけ置いてきたのだが、後で調べてみたら、何千円もの値段をつけている古本屋もあるようだ。

「倍音」に光を当てることで、見えてくるものがある。

…は、説得力がある。 文学作品の観賞や創作においても、その音声面に留意することが重要であることについて、改めて考えさせられた。(もちろん僕は、俳句の音声面についてあれこれと思いを巡らせながら読んだ。575という定型=リズムの問題ではなく、個々の言葉の持つ音色の問題である。) 筆者は倍音を手掛かりにしながら、芸術の役割、日本の音楽と西洋音楽の違いと今後のあるべき姿、異文化間のコミュニケーションなど、様々な問題について言及している。とても刺激的な著作だと思う。 私たちの身の回りには…

「野ばら」で古文入門

…と、それが高校での古文学習に生きると思う。百人一首なども、小中学生の柔軟な頭でどんどん覚えておくことは絶対に無駄にならない。 彼らの頭の中の歌詞や和歌を、高校の教科書の「古文」とうまく結び付けてやれれば、古文の授業はより効率的に進むはずだ。 今年は古文の時間に、シューベルトの「野ばら」を聴かせてみようかと思う。 (前掲書、178ページには「野ばら」の歌詞が次のように載っているけれど、「にほう」は、「におう」または「にほふ」と仮名遣いを統一すべきだろう。) 童は見たり 野なかの…

一級の教材

…るらしい者もいる。そんな生徒の発言を聞きながらこちらも自分の読み方を修正したり、確信を得たりと、なかなか楽しいのだ。 国語教材の定番と呼ばれる『こころ』も『山月記』も『羅生門』も、「向上心」だの「自尊心」だの「悪」だのと、どうしても道徳の授業じみてきて、学習活動がテキストを離れたところでの一般論的な議論に陥りかねないきらいがあるが、「なめとこ山の熊」はあくまでも読解、鑑賞のための文学教材として一級品であると思う。擬態語・擬声語・比喩・擬人法など、表現技法の点でも、味わい深い。

背景の絵が大事

…が、『万葉集』の和歌と山下達郎の歌詞を比べて共通点に気付かせるというアイデアは、『平安文学でわかる恋の法則』(高木和子著、ちくまプリマー新書)の「第一部 憧れの人にアプローチ、第三章 恋の和歌の作り方」からそっくりお借りしました。 この本、実に面白い。『伊勢物語』や『源氏物語』の授業をする際にはとても強力な味方になってくれます。もちろん、高校生にもお勧めですが、「第十二章 老いらくの恋はいくつまで?」に興味津津となるのは、若い人よりも、むしろ僕のような中年男でしょう、きっと…

文学→珈琲→酒?

「文学散歩〜三鷹編、太宰のゆかりの地を訪ねる」のもう一つの目的地は、ブックカフェ「フォスフォレッセンス*1」。この店についてネットで調べていたら、こんな雑誌と遭遇した。 面白そうなのですぐに注文。それが今日届いたのだが、本が好きで、珈琲が好きで、山が好きで、最近は陶器にも興味が湧いてきた僕には、隅から隅まで無駄なく楽しめる雑誌だ。 最近増えてきたブックカフェを紹介する特集の中では、「フォスフォレッセンス」も取り上げられている。この店に行ったらぜひ「太宰ラテ」とやらを飲んでみた…

新潮文庫の白黒の太宰

…地の一つである太宰治文学サロンでは、「三鷹時代の短篇傑作『ヴィヨンの妻』」という企画展をやっている。それで、今日はその予習というわけで、「ヴィヨンの妻」を読んでみた。 これを読むの何十年振りだろう、いや、僕はこれを読んだことあるんだろうか、どんな話だったか全く思い出せない。でも、読み始めて、これは確かに読んだことがあると思った。 坊やは、今年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許さえおぼつか…

「受験巡礼」

…出版社/メーカー: 文学の森発売日: 2011/06/25メディア: 雑誌 クリック: 1回この商品を含むブログ (1件) を見る俳句界 2011年 08月号 [雑誌]出版社/メーカー: 文学の森発売日: 2011/07/25メディア: 雑誌この商品を含むブログ (1件) を見る俳人、今井聖による小説、「受験巡礼」。主人公、矢野精一(42歳)。全国51の国公立大学医学部すべてに合格することを目指している。これは「日本百名山」のすべてのピークを制覇するより明らかに困難な目標であ…

根岸散策

…教員仲間と上野界隈の文学散歩だったのですが、僕は午前中のオーケストラの練習を終えてから、根岸の子規庵にてみんなと合流。その後、三平堂を見学し、笹乃雪にておいしい豆腐料理とお酒をいただいて来ました。(幹事さん、ご苦労様でした。) 根岸のあたりを歩くのは初めて。やたらとラブホテルが多くて変な場所だけれど、子規の住んでいたころは、情緒ある下町だったんだろうなあ。迷路のような路地のあちこちに、子規の句を書いた札が貼ってあって、生前の子規をしのぶことができます。 三平堂では、たまには寄…

俳句とモーツァルト

…あ。それに、音楽とか文学とかって、死にゆくための「モルヒネ」なのかなあ。 f それって案外芸術の本質をついているのかもしれないわよ、すべての生は死に向かっているわけだし。ホスピスというのも無人島よりは現実的な話よね。 m 確かにね。でも、次の「ホスピスでベートーヴェンを聞かされても無用の強心剤のようで迷惑です。」というのは、ベートーヴェンに対する偏見じゃないか? ベートーヴェンだって、うっとりするような甘いメロディを書いてるし、晩年には枯淡の境地というか… f そうね。その後…

どれにしよう

…と、彼がいかに本が、文学が、詩が好きかがよくわかる。大好きなものを前にした時のときめきのようなものが伝わってきて、こちらまで嬉しくなってしまう。 こういう短文集は、一気に読まずに、気が向いたときに少しずつ読む。今回はアマゾンに注文して届いたのが3月半ばで、今日まで半年かかって読み終えた。読み終えてしまったけれども、楽しみが終わってしまったわけではない。荒川洋治はこういうエッセイ集をあと何冊か出していたはず。次には何を読もうか、ネットで検索しているときからもう次の読書は始まって…

周五郎仮名遣い

…たついでに神奈川近代文学館の「文学の森へ 神奈川と作家たち」展をちょっと覗いてみました。その時僕の目に留まったのが、山本周五郎の自筆原稿でした。 明治生まれの周五郎が歴史的仮名遣いで書いているのは当然で、それがおそらく編集者によってことごとく現代仮名遣いに直されている。たとえば「匂ひい」のように。ところがよく見ると、校正前の周五郎の仮名遣いは 「〜が植はってゐる。」 「彼のはうえにじり寄った。」 「そばえ来た。」 のような調子で、正確には「歴史的仮名遣い」と言えないような独特…

古文と現代仮名遣い

…今の高校生にとって古文学習の躓きのもとになっていることは変わりませんから、いっそのこと、古文であっても最初から現代仮名遣いで表記したもので読ませた方が、生徒は古典の世界にすっと入っていけるかもしれない、著者も言うように《古文・文語文=歴史的仮名遣い》という固定観念をぶち壊してみてもいいかもしれない、とも思います。しかしそれはそれで様々な問題(文語動詞の活用をどう教えるか、など)につながるわけですから、そう簡単な話ではありません。 高校生にとってカッタルイことであっても、「思ふ…

対立の歴史

…現在作られている俳句はそれほどつまらないものばかりでしょうか。そして、季語の恩恵にあずかりながら俳句を作る楽しみの奥深さはなかなか否定できないものではないかとも思うのです。俳句は「文学」でなければならないのか、芸術ではなく芸事としての俳句の存在は許されないのか、こんな疑問はどうしても残ってしまうのです。やつあたり俳句入門 (文春新書)作者: 中村裕出版社/メーカー: 文藝春秋発売日: 2003/09/20メディア: 新書 クリック: 1回この商品を含むブログ (4件) を見る

あけましておめでとうございます

…の軟弱な文化・芸術・文学を一刀両断、バッサバッサと切り捨てる。その歯切れの良さが心地よい。しかし、僕自身も丸山健二に切って捨てられる方の人間なのに違いない。 ■追記(1/3) 『新・作庭記』読了。丸山健二の庭は、何度か写真で見ているのである程度のイメージは頭の中にあるけれども、その個性的で魅力あふれる庭のたたずまいは文章からもうかがい知ることができる。そして自分の好みの庭を時間をかけて育てることの喜びも。 しかしこの本はただ庭作りについての蘊蓄を傾けただけでは終わらない。筆者…

何読んでるの?

… * * * * *文学理論 (〈1冊でわかる〉シリーズ)作者: ジョナサン・カラー,荒木映子,富山太佳夫出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2003/09/06メディア: 単行本(ソフトカバー)購入: 7人 クリック: 109回この商品を含むブログ (58件) を見るこれ、鞄の中の一冊。6年ほど前に出たとき一度読んだのだけれど、このところブンガクを語るための語彙の不足をもどかしく感じること度重なり、また読み直している。大学生向けのテキストとして書かれたものだというのに、僕…

「抱え字」?

…語を目にしたことがなかった僕にとってはなかなか興味深い内容だったけれど、すっきり納得できたというわけではない。 「は」は文末に終止形を要求する係助詞だから「降る雪や明治は遠くなりにける」では文法上誤りで、「…けり」とするのが正しいというのはわかるけれど、その説明がすなわち二つの切れ字が許されることの根拠になるわけではない。著者は 「抱え字」については、俳文学者諸氏の今後の研究の成果を待ちたいと思います。 と言っているけれど、その後この問題については何か進展はあったのだろうか。

ケータイ小説の新しさはどこに?

…秋の『ケータイ小説は文学か』を読んでみた。ケータイ小説は文学か (ちくまプリマー新書)作者: 石原千秋出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2008/06メディア: 新書購入: 3人 クリック: 18回この商品を含むブログ (33件) を見るといっても、この本はケータイ小説が親指一本で読まれることについては言及していない。筆者自身「ケータイは持たない主義」で、ケータイ小説も書籍版でしか読んでいないのだ。だから、ケータイ小説に新しい文学の可能性を見出そうとする好意的な姿勢を見せ…

やれやれ

…「図書館奇譚―母なる闇への郷愁」という論文(「国文学」平成10年2月臨時増刊号所収)を面白く読んだ。「図書館奇譚」は「活劇」として楽しめる小説だが、実は「『母親』からの自立という心理学的テーマを象徴的に描き出したもの」なのだという。こういう隠れたテーマを意識しつつもう一度作品を振り返ってみると、細部の描写がテーマと関連した意味を持ち、それらがつながりを持っていることが了解できて、興味深い。他の短編についても、実は深い意味が隠されているのを見過ごしてしまっているのかもしれない。

青春18切符で文学散歩

…切符」を使って、古典文学に縁の深い地を巡ってきました。 大津の二駅手前の石山で私鉄に乗り換え、石山寺へ。紫式部が『源氏物語』を執筆したと言われ、芭蕉も訪れた寺です。 石山寺から幻住庵へ。『奥の細道』の旅から戻った翌年、芭蕉はここで4ヶ月ほど過ごしたそうです。 京都・奈良を通過して吉野山。今年はいつもより早く咲き始めたということですが、その後の気温が低いせいで、下千本でも花はまだ一分咲といったところ(僕が訪れたのは4月1日)。木によっては見事に満開を迎えているのもありましたが。…

鎌倉へ

鎌倉文学館で開催中の収蔵品展「鎌倉と俳人たち」を観に行きました。藤沢駅から江ノ電に乗って長谷に向う途中、車窓からあまりにもきれいな富士山が見えたので、稲村ガ崎駅で途中下車。富士山を真正面に見ながら砂浜を歩いて七里ガ浜に戻り、再び江ノ電に乗って長谷へ。何度でも乗り降りできるフリー切符は、こんなときには好都合です。文学館の展示品の中の一つ、高浜虚子の「句を玉と暖めてをる炬燵かな」という句の色紙がなぜか印象に残ったのですが、それがちょうど帰りの電車の中で読んでいた『俳句の力学』(岸…

「笑い」と「短さ」

…虚子を中心に」(『国文学』2001年7月号)でこんなことを言っています。 …「俳句を俳句たらしめるもの」として「定型・季語・切れ字」が重要であることはいうまでもないが、最も本質的なのはその「極端な短さ」だ。その短さは弱点なのではない。短さを生かす発想があればそれはむしろ表現上の強みになる。では、短さを生かす発想とは何か。短くなければ表現できないものとは… 短くなければ表現できないものの代表が笑いだ。笑いは瞬間的だ。冗談は間髪入れずに言わないと笑えない。四コマ漫画はたいてい滑稽…

ホンモノに触れる

…日本の古典芸能・古典文学というのは僕の苦手分野なんですけど、国語の教師としては避けてばかりはいられませんですからね。半ばはお勉強という気持ちで出掛けたのですが… 文楽、面白かったです。演目は、「二人三番叟」「御所桜堀川夜討 弁慶上使の段」「傾城恋飛脚 新口村の段」。語り手の持ち味がぞれぞれ違うところが聴き所の一つなんでしょうが、中でも最後に登場した豊竹嶋大夫の味わい深い語りが印象的でした。誘ってくれたTさん、Fさん、ありがとうございました。今回の企画がなかったら文楽とは一生無…

富安風生と富士山

…たついでに、「山中湖文学の森」という所に寄ってみました。 ここには三島由紀夫文学館、風生庵などの建物のほか、富安風生、高浜虚子らの句碑・歌碑(のレプリカ)が点在しています。 (徳富蘇峰館は時間が無くて入りませんでした。) 風生庵 富安風生といえば、僕が以前から好きだったのは次の句。 一もとの姥子の宿の遅ざくら まさをなる空よりしだれざくらかな みちのくの伊達の郡の春田かな 風生は富士山の句もたくさん残しています。晩年の25年間は毎年夏を富士山を間近に見る山中湖で過ごしたとそう…

クオリアの言語化

…語化」が、俳句という文学なのである。(第一部) と述べている部分も、「具体によって引き起こされる一瞬の感覚(=クオリア)の普遍化(=言語化)が俳句なのである」と言い換えることが可能でしょう。 では、脳をどのように働かせれば「クオリア」の「言語化」が可能になるのか。ここからが一番興味深いところ、特に俳句を作る人間にとっては大事な部分になるはずです。茂木は夏目漱石の『草枕』を「俳句脳の考察にとっては必読の書」といい、そこからいくつかの箇所を引用しながら「普遍」を見出すための「秘訣…

問題あり?

…でみると、どこかしら気になるところがあるもので、今回も〈文学作品の「おかしみ」は、多くの場合、自己または他者への冷徹なまなざしから生み出されるものですが〉という部分はちょっと問題ありだったかな、と思います。飄々とした人柄が、おのずとその作品に「おかしみ」となってにじみ出る、なんてこともよくあるわけですからね。文学作品の「笑い」というのは、なかなか一筋縄ではいかない相手なんですよ。 ■先週末、ちょっと早い夏休みを楽しんできました。 そのほかの写真はこちら→「車山」「八ヶ岳南麓」

初夏の那須高原

…つゝきも庵はやぶらず夏こだち」と書いてあったはずなのですが…よく読めませんでした。 黒羽城址公園の一角にある芭蕉の館(芭蕉に係わる資料と、黒羽藩大関家の資料を常設展示)。今回は中を見学する時間はありませんでしたが、建物の周辺は満開の牡丹の花が見事でした。周辺には芭蕉の句碑・文学碑が点在します。いつかまた来て、時間をかけて見て回りたいと思います。 ■「週刊俳句 Haiku Weekly」に僕の「『俳句界』2008年5月号を読む」が載りました。ちょっとまずいこと書いちゃったかな…