俳句を口語訳すること

名句の所以 近現代俳句をじっくり読む (澤俳句叢書)

名句の所以 近現代俳句をじっくり読む (澤俳句叢書)

 

 小澤實は『名句の所以』で取り上げたすべての句について口語訳を附している。

たとえば橋閒石の「三枚におろされている薄暑かな」。

この句を見たとたんに「何だかわからん。だから俳句は苦手だ。」と拒否して終わってしまう読者もいそうだ。著者が言う「切字や文語のせいで俳句を食わず嫌いの人」だ。口語訳はそんな読者への配慮であって、

魚は三枚におろされてしまっている。いつか薄暑になっていることだなあ。

という口語訳を読めば「なるほど、そういうことか」という具合に納得して作品世界を受容できるということなのだろう。

しかし、「薄暑」が「三枚」におろされているような奇妙な感覚にとらわれることを面白がっているような読み手にとっては、いきなり「魚は…」と言ってしまう「口語訳」はちょっと興ざめなものとも言える。

 

清崎敏郎の「塗畦のぐうつと曲りゐるところ」はどうか。これを口語訳する意味はあるのか? と思う。しかしこれにも「口語訳」はついている。

塗った畦がぐうっと曲がっているところに魅きつけられている。

元の句では、畦の曲がっている「ところ」を提示しているだけだが、口語訳の方ではその曲がっている「ところ」に魅きつけられている「私(=作者)」が登場する。「私」は書かれていはいないが、「魅きつけられている」の主語が「私」であることは明白だ。「塗畦のぐうつと曲りゐるところ」の句を読む際に、その光景に「魅きつけられている」筆者の存在まで読み取るべきだという「訳者」のメッセージが伝わってくる。もっとも、多くの俳句はいちいち断らなくても、「…に(私は)魅きつけられている」という前提で書かれているとも言えるわけだが、この句の場合、特に「私」の存在を注視すべしというのが訳者の考えなのだろう。実際、口語訳に続く解説の中で、次のように述べている。

「ぐうつと曲りゐるところ」という表現は作者の立ち位置まで想像させる。作者は畦の隅の位置に近いところに立っていよう。

 

小澤實は『池澤夏樹個人編集日本文学全集』の第29巻「近現代詩歌」においても、すべての句に口語訳をつけることを方針としている(一部省かれている句もあるが)。その「選者あとがき」にはこうある。

名句を口語訳してみるということは、正確に句ができてきた道筋をほどいてみるということである。

確かに示された口語訳は、文語から口語への機械的な置き換えで終わってはいない。口語訳に際して、訳者はその句と能動的に向かい合う。その結果から読み取れるのは、「句ができてきた道筋」というよりは、「訳者がその句をどう解釈したかの道筋」といった方が正確ではないだろうか。