目の前にあるのは

 池澤夏樹個人編集による『日本文学全集』の第29巻は、「近現代詩歌」。その中の俳句を拾い読みしている。俳句の選者は小澤實。明治、大正、昭和の俳人50人を選び、その代表句を5句選んで口語訳と解説を加えている。
 この解説は文字数約180、大岡信の『折々のうた』の新聞掲載時の文字数と同じだ。(岩波新書では加筆されてやや長くなっている。)小澤實は大岡信の仕事を意識しないわけにはいかなかったのではないか。
 ふと、両者を較べてみようと思い立った。山口青邨


  玉虫の羽のみどりは推古より


はどちらにも取り上げられている。まず、大岡信

「推古」は推古朝のこと。この句は玉虫の羽のあの妖しいほどに美しい輝きを見た瞬間、飛鳥時代に作られた有名な玉虫厨子の宮殿部の金具の下に敷かれている玉虫の羽に連想が及び、目前の羽の緑を古代から変わることない輝きとして称えたのである。時を越えたみずみずしい輝きをとらえるのに歴史を介在させた所がこの句の眼目。法隆寺の玉虫厨子を実見しての句ならかえって平凡になってしまうのが面白い。(『第八折々のうた』より)

  次に、小澤實。

玉虫の羽のあざやかな緑は、推古時代より残っているのだ。
「推古」とは飛鳥時代の別称。法隆寺に蔵されている国宝玉虫厨子を詠んでいるのだ。厨子の上部、宮殿をかたどった部分には、玉虫の羽が貼りつめられている。その羽の緑の輝きがあせていないことに驚いている。古代の匠たちの技を偲び、たくさんの玉虫が飛び交う飛鳥の夏を思う。

 同じ俳句が、二人の鑑賞によって、全く異なる句になっているのがわかる。小澤實の眼前にあるのは法隆寺の玉虫厨子大岡信が「平凡になってしまう」という、まさにその読み方を採用しているわけだ。 僕は大岡信の読みに従いたい。