詩の中の算術

 俳句の中に「こうだから、こうだ」という因果関係を持ち込むことは、避けるべきだとされる。うっかりそういう句を作ってしまうと、「説明」だとか「理屈」だとか言われて、批判されるのが落ちだ。
 詩についても、同じことが言えるのだということを、三好達治の『詩を読む人のために』(岩波文庫)を読んでいて知った。


   家             丸山薫


 母の顔に肖(に)たボンボン時計が掛けてあり


 それを見上げて 子供達はみんな大人になつた


 部屋数の余つた邸から 下婢達はおひおひ暇をとつて行つた


 そのころ 父はもう夕陽のやうに話さなくなり


 いつのまにか庭の鶴も歿(みまか)つた

 この詩について、三好達治はこう述べる。

第二行をうけた第三行はいささか理に堕ちて散文的なきらいがある。子供たちがおいおい世間へ出ていって「部屋数の余つた邸から」というのが、いわば算術だからその点少しおかしいのである。

 なかなか厳しい指摘だと思う。ここに「算術」が紛れ込んでしまっていることに気づく読者は多くないだろう。『詩を読む人のために』には批評家としての三好達治の鋭敏な感覚が随所にみられる。

詩を読む人のために (岩波文庫)詩を読む人のために (岩波文庫)