夢の手法

 島尾敏雄の『夢の中での日常』を読んだ。買ったのは学生時代か、勤め始めてすぐの頃か。すっかり日焼けして、ページの奥の方まで色が変わってしまっている。最近は、そんな本を本棚から引っ張り出してきて読むことが多い。読むべき本は、新刊書店の棚よりも、自宅の本棚の中にこそ多く潜んでいる、なんてね。

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 森内俊雄による「解説」の次の一節は、島尾敏雄の本質の一面を鋭く言い当てていると思う。これは島尾文学批判であると同時に、島尾文学擁護論でもある。

 氏の小説世界の構築は「私」と、あくまで「私」の延長半径の「円」のうちにとどまる。おろかしいことを言うようだが、ある批判を先取りしたい必要があるのであえて言うことにする。氏が戦争体験に題材をとった一連の作品に国家意識の欠落を見、病妻物に妻の発狂のもとになった「私」の「あやまち」の曖昧な伏せ方に他者もしくは社会、「私」の外なる世界への関係意識、倫理の希薄を見るだろう。これも通俗の見解に従えば、思想とは他者との関係意識の客観性である。とすれば氏の小説にどこかいびつなところがありはしないか。氏の夢の手法も現実に対抗して思想を形成することへの回避ではないのか。

 小説が夢を描くのは、現実からの逃避姿勢の表れであるとの見方があるんだな、なるほど。しかし、夢の中にこそ人間の真実を暴く秘密が隠されているという考え方もあるはずだが、その点について、この解説は深くは掘り下げていない。「解説」は次のように続く。

だが、文学の思想、倫理とは何だろう。小説に人生相談の回答のたぐいを求めるあやまちをおかしてはならない。答えは簡単だ。ある作品がどうであれ読み手に感動を与え、慰め、生かしめさえするならば、それが文学の健康、思想、倫理というものだ。

 僕は今まで読んできた島尾作品から、何らかの感動や慰めを得たことはあっただろうか。