癖になってしまうといった体のもの

 「片岡義男の文章の魅力は、不愛想でごつごつした感じで、最初は抵抗を感じるものの、読んでいるうちに慣れてきて、むしろ癖になってしまうといった体のものだ。」という文は、日本語として不自然さを感じさせるだろうか。昨日、片岡義男について書いている過程でできた文なのだが、結局は書き直してしまった。「体(てい)」と「癖になる」という言葉の使い方が気になったのだ。
 「体」のこのような使い方は時々見かけるように思うが、最近の辞書はこのような用法を認知しているだろうか。手元にある三省堂の『スーパー大辞林3.0』では、

①外から見た有り様。様子。「風になびく―に描く」
②みせかけの様子。体裁。「―の良い逃げ口上」
③名詞などの下について接尾語的に用いられ、…のようなもの、…ふぜいなどの意を表す。「職人―の男」

となっている。どれも、僕の使い方とぴったりとは重ならない。冒頭に掲げたような使い方には違和感を覚える人がいるかもしれない。

 「癖になる」については、こういう用法は普通になっていて、抵抗を感じない人が多いのではないか。『スーパー大辞林3.0』には、「癖になる」が成句として取り上げられているが、その意味は、

習慣になる。特に、よくない習慣になる。「甘やかすと――る」

となっている。片岡義男の文章をたくさん読み続けることは、決して「よくない習慣」ではないだろう。「美味しくて癖になる」とか「気持ちよくて癖になる」のような用例を採録し、「好ましく感じてやめられなくなる(病みつきになる)」というような語義を載せる辞書があってもよさそうだ。

 

■追記(3月12日)

今日、小林秀雄の「喋ることと書くこと」という文章の中に、次のような一文があるのを見つけた。

人生の大事とは、物事を辛抱強く吟味する人が、生活の裡に、忽然と悟るていのものであるから、たやすくは言葉には現せぬものだ。

上の「てい」は漢字をあてれば「体」または「態」だろう。