村上春樹が漱石と並ぶとき

 読んで、「面白かった」とか「期待外れだった」とかの「感想」で終わらせてしまうことができない何かが、村上春樹の作品にはある。「何か」とは、平たく言えば「わかりにくさ、むずかしさ」ということになるかもしれない。そんな難解な作品が、ノーベル賞候補と取りざたされるだけに、本当にそれほどの評価を与えてしまっていいレベルの作品なのだろうかという疑問が生まれる。新刊が出るたびに起こる社会現象は、かえって彼の作品の娯楽性、通俗性を際立たせるばかりで、村上作品の文学性、芸術性に対する評価に寄与するものではないように思われる。いったい専門家筋にはどう評されているのだろうかということが気になる。それで、こんな本に手が伸びる。

 この本が書かれた意図について、著者はこう語る。

村上に関しては、シンプルに、ただ彼を日本の近現代の文学の伝統のうえに位置づけることが、いまもっともチャレンジングな、時宜に適した批評的企てとなる。村上自身の自己認識はさておき、彼が日本の近現代の純文学としても位置付け可能な広がりをもっていることに目を向け、村上を村上自身が敵視している日本の純文学の枠内に位置づけること。このことがいま、この(村上は日本文学の伝統と対立しているという)定型を打破する批評的な企てなのである。

 日本の純文学の中に位置づけるということは、例えば具体的には、漱石の作品と並べてみるということだ。

彼(村上春樹)は、私の考えでは、つねに自分の無意識の闇に見つかる「小さな主題」を下方に掘って進むことで深く「大きな主題」にいたる、夏目漱石型の小説家である。漱石は生涯、男女の三角関係という「小さな主題」から入り、人間に通有の深く「大きな主題」にいたるという方法を手放さなかった。

 漱石が「三角関係」を掘り下げた先に見出した「大きな主題」は近代人のエゴイズムという問題だった。では、村上春樹にとっての「大きな主題」とは何か。それは3・11の原発事故の後に行われたカタルーニャ国際賞の受賞スピーチの延長上にあるはずだと著者は言う。そのスピーチの一節。

我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。

 村上春樹がその作品において、「骨太の倫理と規範」「社会的メッセージ」を示すことができたとき、春樹文学は真に日本の近現代の純文学の伝統のうえに位置づけられるであろう。加藤典洋の、村上に対する高い評価は、近い将来書かれるべき本格的な長編小説の存在を前提としたものなのである。