論理とハラ芸

高校生のための論理思考トレーニング (ちくま新書)

高校生のための論理思考トレーニング (ちくま新書)

 

  西洋文明と遭遇した明治の知識人は、西洋由来の抽象概念のほとんどに漢語を当てはめて、英語の翻訳としての現代文を作った。しかし、日本語が完全に英語化したわけではない。和洋折衷、和魂洋才である。英文にはあるロジックは、日本語の現代文にはない。日本語では、言いたいことは言葉にせず、察してもらう。つまり、日本語によるコミュニケーションは「ハラ芸=テレパシー」である。だから、英文の読解を通して論理思考のトレーニングをしても、それをそのまま日本語の現代文の読解に応用することはできない。現代文の参考書なども、「論理的読解」を標榜しながらも、曖昧な方法論しか提示できていない。
 では、国語力の養成のためにはどうするべきか。論理思考のトレーニングは英語の教師が行う。国語の教師は、明治から昭和までの美しい日本語を音読、あるいは書写するなどして、身体知として身につけさせる。これによって、ハラ芸(ホンネ)とロジック(タテマエ)の使い分けという、目指すべき本来の国語力が身に着くのである。


 …と、著者が述べていることをまとめてみたが、どうもしっくりいかない部分もある。英語の「論理」は筆者が言うように(「あとがき」p.213)、日本語の「察し」や「ハラ芸」を「蹂躙」するものなのか? 両者は相いれないものなのか? 「察し」に近い言葉に「行間を読む」というのがあるが、英文では行間を読むということはないのか?
 誰か、教えてください。