カマイタチ

 草野球に明け暮れていた小学生の頃の事件の一つである。
 一塁を守っていた、僕より一つ年上のかっちゃんが、内野手からの送球を捕ろうと両手を高く差し出したが、球はそのすぐ上を通過してしまった。その直後である。球を後ろに逸らしたかっちゃんは、球の行方を追うことなく、その場にうずくまった。異変を察して駆け寄った子供たちは、かっちゃんの痛みを訴える箇所をのぞき込み、口々に「カマイタチだ、カマイタチだ」と叫び合った。
 その時、僕自身はどこかの守備についていたのか、それとも攻撃の側だったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、かっちゃんのグローブをつけていない方の手の、つまり右手の親指と人差し指の間に、鋭利な刃物で裂かれたような深い傷が口を開けているイメージだけが記憶として鮮明に残っている。球は、親指と人差し指の間の、皮膚に触れるか触れないかのすれすれのところをかすめていったのだろう。
 井上靖の詩集『北国』の中にある「カマイタチ」を読むたびに、この記憶が蘇ってくる。

ここは日暮時にカマイタチが出るといふのでみなから恐れられてゐた。カマイタチの姿を見たものもない。足音を聞いたものもない。が、そいつは風のやうにやつてきていきなり鋭利な鎌で人間の頬や腿を斬るといふ。私たちは受験の予習でおそくなると、ここを通るのが怖かつた。

ある時、学校で若い先生がカマイタチの話を科学的に説明してくれた。大気中に極限的な真空層が生じた場合、気圧の零位への突然なる転位は鋭い剃刀の刃となって肉体に作用すると。

 その「事件」が起きた当時、僕はカマイタチが局部的な気圧の変化によって生じる現象であるというような知識を持っていただろうか。自分より年長の子供たちが「カマイタチだ」と叫ぶのを聞いて、僕は井上靖の詩に描かれた「私たち」のように、何か得体の知れない生き物を思い描いたというのが事実だったかもしれない。
 「事件」が起きたことは、間違いのない事実である。しかし、今の僕の記憶の中に残る、血も流さずにぱっくりと開いた美しい傷口のイメージは、その後になって得た知識や、井上靖の詩によって修正されて出来上がったもので、記憶とはまた別の種類のものなのかもしれない。

北国―詩集 (1960年) (新潮文庫)