よしや? あしや?

 今年は(というより、残りの人生)古典をもっと読んで人並みの教養を身に着けよう、などと今更ながら思い立って、まずは『伊勢物語』を最初から少しずつ読んでいる。きっかけは、「芥川」を授業で取り上げるにあたって、前後の章段を読んでみたら思いのほか面白かったからなのだが、なにしろ今までに僕が読んだ古文というのは、どの国語の教科書にも載っているような作品ばかりで、『伊勢物語』に関して言えば思い出せるのは「東下り」と「筒井筒」の段くらい。最近は何年も続けて「筒井筒」ばかり教えているので、これでは進歩がないなと思ったわけです。
 さて、ようやく3分の1ほど読み進んだが、ここまでで気になったのが第33段。短いので、全文掲げる。

むかし、男、津の国、菟原(むばら)の郡に通ひける女、このたび行きては、または来じと思へるけしきなれば、男、
  蘆辺よりみち来る潮のいやましに
    君に心を思ひますかな
返し、
  こもり江に思ふ心をいかでかは
    舟さす棹のさして知るべき
田舎人のことにては、よしや、あしや。

(「新潮日本古典集成」より)

 僕は最後のところを読んで、心の中でくすっと笑ってしまった。これは、語り手が言葉で戯れているのではないか。「よしや、あしや」の「あし」は男の歌の「蘆辺より」の「あし」を意識してのもの。しかも、すぐ前の32段には、「いにしへのしづのをだまき繰りかへしむかしを今になすよしもがな」という歌があり、両方の段を続けて読んだ僕には、「よしや、あしや」の「よし」にはその前段の「よしもがな」の「よし」が響いていると感じられてならない。つまり、語り手はここで素朴な言葉遊びを楽しんでいるだけのことであって、田舎人の詠んだ歌の「良し、悪し」などどちらでもよいと思っている。植物としてのアシは、蘆(よし)でもあり、蘆(あし)でもあるわけだし。
 この部分について、「古典集成」の頭注では、次のように書いているが、どうも的を外しているように思えてならない。

最後の「田舎人の」以下は作者の評。『伊勢物語』が田舎を軽んずることはすでに見たとおりだが、この場合の女の「こもり江に」の返歌を、作者はちょっとした出来だと認めているのである。(中略)それを「よしや、あしや」と韜晦の姿勢で言うのは、「田舎人」を賞めることへのこだわりであろうか。

 岩波の「古典体系」など、これまで数冊の注釈本を調べた範囲では、この部分について、語り手のつまらんダジャレにすぎないと断じているものはない。当然すぎることをわざわざ書くのは野暮だということなのだろうか。古文の教養の足りない僕には、どうもよくわからないことだ。