モーターアシスト軽自動車と俳句

 今年、軽自動車に乗り換えた。その車はエンジンをアシストするためのモーターを積んでいて、発進時、加速時のエンジンの負荷を軽減する。モーターだけで走るほどパワーはないが、小さなエンジンだけで頑張っている健気な軽自動車の背中を軽く押してあげる、というほどの働きをしてくれる。
 小川軽舟の『俳句と暮らす』を読んでいて、俳句というのは、人にとって、ちょうどこの軽自動車のモーターのような機能を果たしているのかもしれないと思った。
 炊事をしたり、酒を飲んだり、病気になったり、散歩をしたり、という日々の暮らしは俳句に素材を提供してくれる。逆に、俳句は何とかこうして生きている僕たちの背中を軽く押して、前へ(未来の方向へ)進ませてくれる働きがあるのではないか。『俳句と暮らす』を読んでいて考えたのは、そんなことだ。

過去と未来の接点に現在の日常がある。振り返れば過去があり、前を向けば未来があり、見まわせば同じように平凡な日常を重ねる人々がいる。俳句はこの何でもない日常を詩にすることができる文芸である。しかし、日常にべったり両足をつけたままでは詩は生まれない。ちょっと爪先立ってみる。それだけで日常には新しい発見がある。その発見が詩になる。ちょっと爪先立ってみる―それが俳句なのだ。(「あとがき」より)

 「ちょっと爪先立ってみる」とは、具体的にはどうすることだろう。普段より意識的にものをよく見る、自分自身を客観視する、そして見えてきたものにふさわしい言葉を与える…そんなことだろうか。こうして表現されたものは過去のものとなるが、それを足掛かりに、未来に向かって一歩を踏み出すことができる。そもそも表現とは(とりわけ、日記、自伝、自画像のような自己表現は)、過去の自分を記録するという機能はもちろんのこと、それを足掛かりに未来に進もうという意志を生み出す働きがあるのではないか。俳句にもまた、小さいながらもそんな働きが備わっているのだと思う。
 先ほどの軽自動車のたとえで言えば、俳句は小さなモーター、日常生活がモーターを動かすバッテリーということになりそうだ。