言葉を拾いに

「街」同人の上田貴美子氏より、句集『暦還り』が送られてきました。ありがとうございます。

 以下、丸印を付けた句を紹介し、そのうちの数句については拙い鑑賞文を書かせていただきます。

人増えてをり山の霧すぐ晴れて

 長く苦しい登りもひと段落、誰もが一息入れたくなる尾根上の広場に到着した。霧が濃くてよく見えないが、先についた幾組かのパーティーの談笑する声が聞こえる。立ったまま地図を広げて、コースタイムを確認する。ここから山頂まであと3〜40分、昼飯にちょうどよい頃合いに着きそうだ。よしよし、計画通り。ここでは長居せずに、お茶を一口飲んでからすぐ出発だ。ザックの中のペットボトルを取り出そうとかがみこむと、急にあたりが明るくなる。顔をあげると、立ちこめていた霧が急に晴れて、青空が顔を出し、向かいの稜線の一部がくっきりと見えてきた。後続のパーティーがどんどん登ってくるのだろうか、広場に憩う登山者の数は思っていた以上に多い。さあ、少し先を急ごう。ぐずぐずしていると、山頂の特等席を確保できないぞ。

台風の育ち盛りや旅鞄

 旅行鞄に明日からの旅に必要なもろもろを詰め込んでいる。もちろん、雨具も。南の海上では台風が発生して北上しつつあるという。台風と鉢合わせしてしまうか、或いはうまいことかわすことができるか、運を天に任せるほかない。万が一台風の直撃を受けて、いつぞやのようにまた旅の宿で缶詰を余儀なくされたとしても、それはそれで一興ではないか。出発は明日の朝、6時。

いま見ゆるものを見てをり冬の葬

 作者は、今見えているものを見ているという自分の行為の神秘に思い至った。今自分が見ているということ、すなわち生きているということが、眼前の事物の存在を保証している。死者の前には何も存在しない。死者も何かを見ているだろうというのは、生者の感傷にすぎまい。
 他の人の眼にも自分と同じように見えているだろうというのも、人が陥りやすい錯誤だ。他でもない、自分の眼で見ているという行為のかけがえのなさに気づかせてくれるのが、俳句という文学なのではないか。

ペン執るや言葉ひつこむ十三夜
昂りの欲しくて落ち葉踏みにゆく

 気持を昂らせなければ、言葉は生まれないのである。ペンを握っても、キーボードに手を載せても、それだけでは言葉はなかなか思うようには出てきてくれないのである。そんな時、人は月の光を浴びたり、落ち葉をかさこそと言わせたりしようと、外に出て行くのである。落ち葉を踏みに行くとは、言葉を拾いに行くということなのである。月の光が呼びかければ、人は何かを答えようとするだろう。西行法師も、ベートーヴェンも、宮沢賢治も、きっとそうだったに違いないのだ。

古里の訛日傘に畳み込む
浮草や水に沈めるものの息
涼しくてピアノの蓋を開けてみる
鰯雲待ち呆けのまま晩年に