牧野信一を読んでみる(その2)

 牧野信一の代表作と言われる「ゼーロン」を読んでみた。
 作中に登場するヤグラ嶽(矢倉岳のことだろう)には20年ほど前に一度登ったことがあり、そのあたりのおよその地形図は今でも頭に描けるほどだが、自分の記憶の中の映像を頼りに作品の舞台のイメージをつくり出そうとすると、どうもうまくいかない。「新宿を起点とする急行電車」だの「小田原駅」「箱根連山」「明神ヶ岳」だのといった固有名詞の招き寄せる既知の映像は、この小説を読み味わうのにはかえって邪魔だ。この小説が描く世界は、およそ現実離れした世界なのだ。そもそも「猿山の森」、「鬼涙(きなだ)沼」、「龍巻(たつまき)」などという地名が実在する(した)のかしないのか、調べてみればわかることではあるが、どっちにしても読者はその字面から勝手なイメージを想像すればよい。
 主人公の「私」にしても、「私」の愛する馬車挽き馬ゼーロンにしても、その芝居がかった言動はもう滑稽の域に達していて、あたかもマンガを見ているようだ。そして、いつしか悪夢の中に入り込んだような、ドタバタの結末。そうだ、誰かこの小説を劇画に仕立て上げてみたら、結構面白い作品になるのではないか。

 この作品について、ドナルド・キーンはこんなふうに書いている。

 牧野のおそらく最も成功している作品は『ゼーロン』(1931年)で、これは重いブロンズの胸像を背負い、いやがる駄馬ゼーロンをなだめつすかしつしながら山路を踏み分けていく苦難の冒険譚である。この風変わりな状況設定は、最初からこの物語にいわゆる私小説の源泉にある日常体験とは似ても似つかぬ性格を与えているので、その語り口には或る種のユーモアさえある。語られている事実は文字通り牧野の体験に即したもので、事実、牧野には彼自身の胸像があった。しかし、この物語は、空想とまで言っていいほどの奔放な想像力に彩られていて、同じ傾向は、牧野のはっきり自伝的といっていい一連の小説にも認められる。(『日本文学史 近代・現代篇四』徳岡孝夫、角地幸男訳)