一級の教材

夜のある町で『夜のある町で』は荒川洋治が、好きなこと(もの)、いいと思ったこと(もの)について、くつろいだ調子で穏やかに語った文章を集めた楽しい本だ。ところが、宮澤賢治に対してはとても手厳しい。(それから「詩の朗読」も全く認めないのだが、そのことには今回は触れない。荒川洋治が賢治を批判しているのは、「注文のない世界」という文章。)
荒川洋治宮澤賢治批判は、彼が「無垢」である点に向けられる。
宮澤賢治が宇宙的なスケールの世界観を持った人であることはよく言われる。しかし荒川洋治に言わせると、その世界観は、「戦争を通過しなかった人の世界観」であり、「世間にかすりもしない世界観」ということになる。今の国民は、「みずからの日ごろの汚れには目をつぶり、夭折という偶然によって晩節の汚れから逃れた詩人を美化することで満足している」と、批判の矛先は宮澤賢治だけでなく、彼をもてはやす国民にまで向けられる。そして一貫して賢治批判を続けている自分を「非国民」であると言って結ぶ。
似たような趣旨で賢治を批判する人はほかにもいるし、僕にもその言わんとするところはよくわかる。でも、宮澤賢治が魅力的な作品を残した人であることは、どうしたって否定できない。
今年も授業で「なめとこ山の熊」を読んだ。確か今年で3年連続ということになる。授業で取り上げると、何度も何度も隅から隅まで丁寧に読むことになるけれども、それでもこういう奥の深い作品は、もう十分にわかったというふうにはならない。僕が思いつかなかったようなするどい意見を言ってくれる生徒もいて、こちらの読み方も揺らいだりする。
注文の多い料理店 (新潮文庫)最後の場面で、熊にやられた小十郎が「何か笑っているようにさえ見えた」というのは、熊を殺さねばならない「因果」から解放され苦しまなくてよくなったからだという考え方があり、生徒にとってそれは理解しやすい解釈だ。しかし、死んで楽になったというのでは、この作品の結末を小十郎一人の問題へと矮小化してしまうことになる。それだったらかりに小十郎が一人で崖から滑り落ちて死んだとしても、心の平安は訪れるという点では同じことだ。
そうではなく、小十郎の笑いは、あくまでも小十郎と熊との関係の中で捉えられるべきではないか、小十郎の最期の言葉が「熊ども、ゆるせよ」であることを思えば、小十郎の笑いは熊に許されたことに由来するはずだ…生徒の中には、うまく言葉で説明はできないものの、そんな読み方をしているらしい者もいる。そんな生徒の発言を聞きながらこちらも自分の読み方を修正したり、確信を得たりと、なかなか楽しいのだ。
国語教材の定番と呼ばれる『こころ』も『山月記』も『羅生門』も、「向上心」だの「自尊心」だの「悪」だのと、どうしても道徳の授業じみてきて、学習活動がテキストを離れたところでの一般論的な議論に陥りかねないきらいがあるが、「なめとこ山の熊」はあくまでも読解、鑑賞のための文学教材として一級品であると思う。擬態語・擬声語・比喩・擬人法など、表現技法の点でも、味わい深い。