- 作者: 水谷静夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/04/21
- メディア: 新書
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著者はその根拠として、立派な肩書をもつ人の日本語にも「表現態度の緩み」が多く見られることを挙げている。
率先して禁煙エリアを広げようとした某県知事の、
「全国チェーンのコーヒー店が一緒に店での禁煙に取り組んでいただいて大きな力になっている」
という発言が「緩み」の一つの例。正しくは「コーヒー店が…いただく」ではなく、「コーヒー店にも…いただく」、あるいは「コーヒー店が…くださる」でなければならない。同様の発言は、「非常に有名な財界人の発言」などにもあるのだという。
確かに著者の言うとおりで、僕もそういう言い方には抵抗がある。授業でも「いただくのは自分、くださるのは相手」などと言って説明している。しかし、「くださる」という言葉を口にすることにこそ抵抗を感じるのが、今の多くの日本人だろう。もはやこうした「緩み」が気にならない人が多数を占めつつあるのが現実ならば、その流れを止めるのは難しいだろう。ことばはそんなふうにして、今までも変化してきたのだし。
著者は、今までの変化をもとに、将来は「青な花」、「効果的に教育しる方法」のような日本語がふつうになるかも知れないと予測する。そして、そうした変化を小さくとどめようとする「自浄作用」が働くことを期待する一方で、教育の力は信頼できないと言う。なぜなら、著者によれば「既成の学校教育は誠に良くない」からだ。著者の学校教育不信の根は、いわゆる「学校文法」にある。
確かに、今の「学校文法」は多くの矛盾を抱えながら、何十年も進歩が見られない、まさに旧態依然という状態だ。その責任は現場の教師にあるのか、専門の研究者にあるのか、それはともかく、何とかしなければいけないのは確かだと思う。
しかし、「入子構造」の考え方など、著者が提起するような文法論を国語教育が導入したとしても、著者の憂うる「緩み」や「乱れ」に歯止めがかかるのかどうか、疑問ではある。