山で流すのは

からだのままに (文春文庫)

からだのままに (文春文庫)

涙線のやたら弱い僕だけれど、山頂に到達して涙を流した、という記憶はない。昨年、標高差2,000メートルの黒戸尾根を登っておよそ30年ぶりに甲斐駒の山頂に立った時も、3年前に家族5人揃って富士山頂で朝日を拝んだときも、それなりの感慨はあったけれど、涙は出なかった。山登りで出てくるのは汗ばかり。そのほとんどが前の晩のビールだったりして。
五十を過ぎて山登りを始めたという南木佳士は、こう書いている。

この秋は、上高地から入って奥穂高岳に登ってきました。ときに四つん這いになってゆっくり、一歩ずつからだを運んでいって、ふと目を上げたら、急峻で雄大な岩陵の連なる風景が広がっていて、思わず涙ぐんでしまいました。完璧に拒絶されるでも、無条件で受け入れられるでもない、ただそこに在るだけのあまりにも小さな存在のわたしにできるのはせいぜい涙を浮かべるくらいのことでしかなかったのです。(変容する「わたし」)

肺炎、パニック障害うつ病、肺の手術などを経て五十五歳になり、まだなんとか生き延びている(あとがき)」という著者だからこそ、思わぬ高みに到達し得た感慨は大きいのだろう。
当然のように僕を山頂まで運んでくれる健康な体に感謝し、もっといたわってやらなきゃいけないのかな、と思う。