俳句とモーツァルト

m こんな遅くに呼び出してごめん。
f 構わないけど、何かあったの?
m ちょっと会いたくなっただけ、いや、そうじゃなくて、この本が面白くて、君にも見せたいんだ。
f 高浜虚子 俳句の力』岸本尚毅…あら、これ去年読んでいたわよね。
m いや、去年読んだのは『俳句の力学』。これは「力学」じゃなくて「力」。高浜虚子のことを書いているんだ。もっとも、著者は

虚子について考えることは、すなわち俳句そのものについて考えることである。(p.37)

と言っている。著者が「虚子の俳句はこうだ」と言えば、それは「俳句とはこうあるべきだ」と言っているのと同じことなんだ。これを読んだら、俳句にたいする認識がちょっと変わったような気がする。いや、ちょっとじゃなくて、すごく変わったかも。
f あなた、虚子の俳句は退屈なのが多いって言っていたわよね。
m うん、まあそうなんだけどね。でも、この本を読んだら、虚子はもっと面白く読めるんじゃないかと思うようになったよ。いや、そうじゃなくて、虚子の句に面白さを求めなければ、虚子の句の良さがわかるということかな。著者は

虚子の俳句自体に「面白い」という言葉があてはまらないのです。(p.33)

と言っている。とにかく、虚子の句や虚子選の句をもっと読んでみたくなったよ。
f それにしても、ずいぶんたくさん線を引いたわね。最初のページからいきなり…
m そうだよ。だって、こういうのって、いろいろ考えさせられると思わない?

 もしもホスピスの施設に入ることになったら、何をもって枕頭の慰めとするでしょうか。
 私の場合、思い浮かぶのは、モーツァルトと虚子です。ホスピスベートーヴェンを聞かされても無用の強心剤のようで迷惑です。バッハやブルックナーの神学的厳粛さも、異教徒の私には鬱陶しい。諦めのような透明感と安らかさを湛えたモーツァルトこそが、死にゆく魂のためのモルヒネにふさわしい。虚子の俳句もそうです。

もしも無人島で暮らすとしたら、というのはよくあるけれど、ホスピスに入るとしたらというのは意表を突かれた感じだなあ。それに、音楽とか文学とかって、死にゆくための「モルヒネ」なのかなあ。
f それって案外芸術の本質をついているのかもしれないわよ、すべての生は死に向かっているわけだし。ホスピスというのも無人島よりは現実的な話よね。
m 確かにね。でも、次の「ホスピスベートーヴェンを聞かされても無用の強心剤のようで迷惑です。」というのは、ベートーヴェンに対する偏見じゃないか? ベートーヴェンだって、うっとりするような甘いメロディを書いてるし、晩年には枯淡の境地というか…
f そうね。その後の「バッハやブルックナーの神学的厳粛さ」というのも、それぞれの一面に過ぎないかもしれない。でもそれが一般的な受け止め方なんだから、いいんじゃないの。ベートーヴェンには力強さを、モーツァルトには安らかさを求める。聴衆って、そういう聞き方をするわけでしょ。固定観念とか先入観とか言われるかもしれないけれど、ある程度それに沿った演奏でないと納得しないのが聴衆でしょ?
m そうか! 君の今の話でひらめいたぞ。実は「観念」というのがこの本のキーワードだと思っていたけど、俳句を読むことと、音楽を聴くことには同質の面があるな。その二つを結びつけるのも、「観念」だ。
f どういうこと?
m うん、ここ、線の引いてあることろを読んでみて。

最晩年の芭蕉の句は、淋しくて人懐かしい秋という普遍的な観念を客観的に描きました。(p.119)
虚子の描いた観念は、虚子独自のものではなく、むしろ人々の心の中にある普遍的な観念、ときには陳腐で平凡な観念でした。(同)
俳句の力は、俳句の言葉と人々の心の中にある普遍的な観念とが共鳴するところにあります。(p.122)

秋といえば「淋しくて人懐かしい」というばかりではないと思うけれど、一般的な「観念」としてはその通りだよね。モーツァルトが「透明感と安らかさ」を湛えているというのも同じだなって、君のさっきの話を聞きながら思ったんだ。俳句でも音楽でも、「観念」に沿った表現と出会った時、享受者は安心する。癒される。
f わかるわ。でも、音楽について言えば、いつでも「観念」に沿った演奏ばかりではないわよね。何年か前に聞いた、ハーディング指揮のモーツァルトは、颯爽としていて元気が良くて、それこそ強心剤のようだったわ。39番、40番、41番って続けて聞かされて、終わった時にはぐったりしちゃった。面白かったけど。
m それ、僕も聴いたよ。好みは分かれるだろうね。僕は好きだな。ああいうチャレンジが音楽表現の可能性を広げるんだと思う。こんなふうに音楽とからめて考えているうちに、この本の批判的な読み方もありそうな気がしてきたなあ。読んでいるときはすごく納得しちゃったんだけれど。
f 俳句というのも、「普遍的な観念」を描くだけでは表現の可能性が広がらないと…
m 単純ないい方をすれば、そうだね。「観察」とか「描写」に重きを置けば、俳句は「観念」から離れていくことができるし、実際そういう試みはたくさんの俳人がやってきた。でも著者の立場はそうじゃない。器の小さな俳句には、描写にも限度がある。細密な描写よりも、省略によって読者の想像力を働かすべきである。俳句という小さな器に無理をさせないというのが、この著者の立場なんだ。その「小さな器」というのが音楽とは違うところだな。音楽の場合の「観察」というのはスコアを細かく読み取ることで、それは音によってかなりのところまで細密に、あるいはダイナミックに「描写」することができる。演奏するのは大変だし、聴いてる方も疲れるけど。
f それ以上に、あなたの小難しい話を聞いているのはとっても疲れるわ。
m コーヒーでも淹れようか。
f ワインの方がいいなあ。ワルターモーツァルトでも聴きながら。

高浜虚子 俳句の力

高浜虚子 俳句の力