「観念」と言われないために

「観念」なんて言葉が出てくるような評論は、どうしたら生徒にわかってもらえるか、授業はいつでも困難をきわめるのだけれど、逃げるわけにはいかないので、「『観念』ってのは要するに『頭の中の考え』のことだよ。」などと説明して先に進む。「観念的」になると、「頭の中だけで考えようとする様子」などと説明して、それが否定的な意味合いを持つことも生徒にはわかってもらう必要がある。いや、否定的なニュアンスさえ感じてもらえば、もうそれでオッケー。評論の言葉は、それによって筆者がある事柄を肯定しているのか、否定しているのかを押さえることが大事で、そこをクリアすればなんとか勝負になるのだ。
今日は、長谷川櫂『句会入門』のことを書こうと思っていたのに、前置きが長くなってしまった。
さて、「観念(的)」という言葉は俳句を評するときにもしばしば使われるけれど、この場合も否定的な気持ちがたっぷりと込められているのであって、「理屈」「説明」などと並ぶ最大級のけなし言葉の一つと言ってしまってもいいかもしれない。長谷川櫂は自らが指導する句会の中で、「観念」だ、「理屈」だと言って、ばっさっばっさと弟子たちの俳句を切り捨てていく。情け容赦ないのだ。でも、一方で、どうしたら「観念的」ではなくなるかについての具体的方策も示してくれる。
たとえば「この国の高みにいまも鷹一羽」については、こんなふうに。

この鷹には鷹の持っている観念性が強烈に出ている。もっと具体化しないと、ただ観念の世界で終ってしまう気がする。…大事なことは観念をどう肉付けするか。この句にしても「国の高みに」ではなく一字変えて「この国の高みをいまも鷹一羽」とするだけで観念がちょっと肉付けされる。人間はもともと観念的な生きものだから観念的にならないようにしてるくらいでちょうどいい。

さらに「鷹の目や山の眠りのただ中に」については、こんな具合。

眠っている山の中で鷹だけが目覚めていることがいいたいのなら、「山の眠り」ではなく「眠れる山のただ中に」とするほうがいい。「山の眠り」だともろに観念だけれど、「眠れる山」なら山の実体が見える。観念を肉付けするっていうのはそういうことなんだ。

なるほど。俳句の上達のためには、いい指導者のいる句会に参加するのが一番だということが、この本を読むとよーくわかる。評論文の授業も、いい指導者のいる句会のように楽しくできたら素晴らしいんだけどなあ…

句会入門 (講談社現代新書)

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