小説の中の「私」

 保坂和志『小説の自由』を読み始めたら、いきなりこんな箇所が出て来て、最近の「現代文」の授業のことを思い出した。

 小説以外の場で「私」と書いてあったら、それは今その文章を書いている人以外の何者も指さない。(中略)しかし小説で書かれる「私」は今その文章を書いているその人と一致する保証はどこにもない。「私」が書いているその人と一致するかどうかなんて、小説においては全然問題ではない。(「文庫版まえがき」より)

 教室で今読んでいるのは村上龍『料理小説集』の中の一編で、現代文の教科書採録にあたって「パラグアイのオムライス」という題がつけられている。『料理小説集』に収められた32編は、映像関係の会社に勤める「私」(または「オレ」)が国内外での料理にまつわる体験を語るという設定になっているのだが、「私」の舌の記憶は多くの場合、情交のあった女性の記憶と結びつく。だからこの作品は、「私」の食と性の遍歴の書とも言える。
 そんな中にあって、教科書所載の「パラグアイのオムライス」は他の作品と趣をやや異にし、「私」が仕事で関わった、オムライスが好きな17歳の女性歌手との心の交流を描いた、なかなかの好編だ。
 さて、小説の授業では、まず主な登場人物を確認してみようというのがいわば定石だ。そこで今回も生徒に「この小説の登場人物は?」と問うてみる。すると、返ってくる答えは、「17歳の少女」と「村上龍」。つまり、生徒は「私」を著者自身だと思い込んでしまう。だから、小説というのは基本的にはフィクションで、登場する人物・団体等は架空のものである、という所から勉強することになる。
 実は「国語総合」の授業で読んでいる村上春樹「鏡」という小説でも事情は同じで、作中の語り手の「僕」を村上春樹のことだと思い込んでしまう生徒が多い。
 「パラグアイのオムライス」の場合、僕はこんな図を黒板に書いて示す。

 しかし、多くの大人の読者も実は、小説とは虚構であるとわかってはいても、「私」の中にいくらかは(あるいはかなりの部分で)著者自身の実像が投影されていると読みたくなってしまうのではないか。小説家として成功した村上龍が、世界に活動の場を広げ、作品中の「私」のように各国の美酒に酔う機会も多かったであろうことは想像に難くない。そもそも小説中に一人称で登場する人物が、思想的にも心情的にも著者と一番近い位置にいることは少なくない。
 …というところまでは教室では話さない。生徒の頭を混乱させるのを避けるためだ。「みんなわかったかな、小説中の『私』『僕』は、あくまでも小説家の作りだした架空の人物なんだよ。」しかしそれで生徒は本当に納得しているのだろうか。

村上龍料理小説集 (集英社文庫)

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