周五郎仮名遣い

mf-fagott2010-03-01

また仮名遣いの話かよ、と思われるかもしれませんが。
先週の土曜日、山手の方に行ったついでに神奈川近代文学館の「文学の森へ 神奈川と作家たち」展をちょっと覗いてみました。その時僕の目に留まったのが、山本周五郎の自筆原稿でした。
明治生まれの周五郎が歴史的仮名遣いで書いているのは当然で、それがおそらく編集者によってことごとく現代仮名遣いに直されている。たとえば「」のように。ところがよく見ると、校正前の周五郎の仮名遣いは
「〜が植ってゐる。」
「彼のはうにじり寄った。」
「そば来た。」

のような調子で、正確には「歴史的仮名遣い」と言えないような独特なものなんですね。いったいこれはどういうことなんでしょう。展示されている原稿や手紙を見る限りでは、彼が現代仮名遣いに改めようとした形跡は見られませんから、新旧二つの仮名遣いの間で混乱したというわけではなく、もともと「そば」のような書き方をしていたのでしょう。もしこれが校正されることなく、このまま活字になっていたらどうだろうかと想像してみるのですが、案外すぐに慣れてしまってたいして気にならないのではないかと思うのです。「ひ」を「し」と発音する‘なまり’のようなもので、その書き方で一貫してさえいれば、さほど抵抗なく受け入れることができそうです。
僕は、校正前の「周五郎仮名遣い」で書かれた『季節のない街』を読んでみたい。その方が、周五郎の作品世界により深く入っていけそうな気がするのです。