長谷川櫂の最新の句集『富士』を読んでみた。
- 作者: 長谷川櫂
- 出版社/メーカー: ふらんす堂
- 発売日: 2009/05
- メディア: 単行本
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桜柴くべてもてなす炎かな
歌ひつつ舟を漕ぎゆく桜かな
朝風呂やここに春立つ桶の音
かの雲の峰のほとりに庵せん
しかし、僕はこの句集を読み進むにつれ、ある種の快感に身をゆだねている自分に気づき始めた。室町期あたりに描かれた淡彩の絵巻物を目で追ってゆくときに感じる、異次元のユートピアに連れて行かれたような不思議な心地よさ。いつしか自分が蓑と笠をかぶった点景人物そのものになって季節をめぐる旅をしているかのような、あの感覚だ。(それはおそらく句集全体を通読していて初めて得られる感覚だと思うのだが。)
このあたり煙のごとく山眠る
山はみな浮きつ沈みつ桜かな
万緑を押し開きゆく大河あり
雲飛んで伊豆山の秋高きかな
僕たちの時代の俳句は、切れば現代人の血がほとばしり出るようでなければ価値は無いのか。古雅であることは否定されるべきことか。モーツァルトやハイドンを聴いたり奏でたりすることは、とんだ時代錯誤の酔狂な営みか。創造とか表現とかいう営みに窮屈な枠をはめて、せっかくの楽しみを萎縮させるようなことはすべきでないと僕は思う。
ところで、そもそも長谷川櫂の作品に現代は息づいていないのか。僕はそうも思わない。
花茨こみちは草に埋もれけり
蚊柱をみてゐて長き旅にあり
人去りて籐椅子そこに残りけり
これらの作品が感じさせる寂寥感は、現代人のもの、いや、もっと普遍的なものなのではないかとも思う。モーツァルトもハイドンも、過去の遺物ではないだろう。