やれやれ

カンガルー日和 (講談社文庫)

カンガルー日和 (講談社文庫)

今使っている国語総合の教科書には羅生門と並んで村上春樹「鏡」という短編が載っている。普通は迷わず「羅生門」を取り上げるんだろうけれど、僕は迷った末、「鏡」に挑戦した。それで授業はうまくいったのか、という話はここではしない。(試験問題を作るのにちょっと苦労した、ということだけは書いておこう。)
さて、僕は「鏡」の収められた短篇集カンガルー日和を読んでみた。そこそこ楽しめたし、読んで損はないと思ったけれど、これといって印象に残る作品もなかった。ただ、印象に残ることばはあった。
やれやれ。
最後の作品、「図書館奇譚」の中の次の一節を読みながら、そういえばこの「やれやれ」にはこの本の中で何度かお目にかかったなあと思ったのだ。

「なんだい、その美少女っていうのは?」
「食事を持ってきてくれた女の子ですよ」
「変だな。食事はおいらが持ってきたんだよ。その時君はぐっすり寝てたんだぜ。おいらは美少女なんかじゃないよ」
また頭が混乱した。やれやれ。

それで、もう一度頭からさっと探してみたら、「やれやれ」はたちどころに7つも見つかった。丹念に読み返したわけではないから、実際はもっとあるかもしれない。これはかなりの頻度だといえる。

とにかく僕は渋滞した道路上でタクシーの車内にとじこめられていた。秋の雨が屋根の上でパタパタパタという音を立てていた。メーターが上がる時のカシャッという音が、ラッパ銃から発射された散弾みたいに僕の脳味噌に突きささる。
やれやれ。

(「タクシーに乗った吸血鬼」)

彼にはきちんとした綺麗な恋人がいた。どこかの上品な女子大の二年生で、毎週日曜日にデートした。
やれやれ。
(「駄目になった王国」)

事実、若い女の子たちの十人中九人までは退屈な代物である。しかしもちろん、彼女たちはそんなことに気づいてはいない。彼女たちは若く、美しく、そして好奇心にみちている。退屈さなんて自分たちとは無縁の存在だと彼女たちは考えている。
やれやれ。

(「32歳のデイトリッパー」)

…こんな具合。ほとんどの場合、「やれやれ」は語り手の「僕」の嘆息のようなものだ。あえてもう少し長い言葉に置き換えるならば、「ふうっ、困ったもんだなあ、まったく。もうちょっと何とかならないのかなあ。でもまあ、いいか…」ってな感じだろうか。
村上春樹 やれやれ」と打ち込んで検索してみると、やっぱりいろいろとヒットする。すでにこの「やれやれ」を村上春樹読解のキーワードの一つとして論じた評論家もいるようだ。そんなことがわかってしまうと、もうこの話題についてこれ以上書いてもしょうがないのかなあと思ってしまう。インターネットというのは、自分が考えようとすることは既に別の誰かが考えているのだということをあっという間に知らせてくれる。とってもベンリでありがたいツールだ。

ところで、話題の1Q84にはこの「やれやれ」は出てくるのだろうか。もし頻出するようなら(多分そんなことはないだろうと思うけれど)、きっともの足りない小説だと感じるだろう。「やれやれ」は世渡り上手な賢い大人の台詞だが、それは思考停止の宣言でもあるからだ。
1Q84 やれやれ」で検索したら、どうだろう?

■追記(6/12)
中地文という人の、「図書館奇譚―母なる闇への郷愁」という論文(「国文学」平成10年2月臨時増刊号所収)を面白く読んだ。「図書館奇譚」は「活劇」として楽しめる小説だが、実は「『母親』からの自立という心理学的テーマを象徴的に描き出したもの」なのだという。こういう隠れたテーマを意識しつつもう一度作品を振り返ってみると、細部の描写がテーマと関連した意味を持ち、それらがつながりを持っていることが了解できて、興味深い。他の短編についても、実は深い意味が隠されているのを見過ごしてしまっているのかもしれない。