自己表現としての俳句

『俳句』を買うと、まず「合評鼎談」を読む。三者の俳句観のぶつかり合いが面白い、と言いたい所だが、実際は毎回「本井英・高田正子組」対「今井聖」という対立の図式になってしまう。たとえば、「気のせゐのやうな福茶の甘さかな」(松本てふこ)をめぐっては、こんな具合。

高田 私は福茶を飲めば甘いと思うのですが、それを〈気のせゐ〉と捉える世代なんだなと思いました。
本井 面白いですね。
今井 私は、あっけらかんと、ちょっと可愛い、ではダメだと思うのです。
本井 どこに書いてあるんですか、そんなこと。

ああ、始まったな、と思う。『俳句』の鼎談はこれじゃなくちゃ、とワクワクしてくる。でも、傍観者のように気楽な気分で読んでいられるわけではない。上の場面に続く今井氏の次のような発言は、僕自身にもぐさっと突き刺さってくるような気がする。

叫びなんて大袈裟なものでなくてもいいから、本音を言う、本当の告白をする、どぎつい自分の観念みたいなものを持ってくるなりして欲しい。…何か表白したい強烈なものがない限り、やる必要がないんです、文芸なんて。大袈裟に言うとデモーニッシュなものがないんだったら、なぜ、自己表現をするんですか、何のために、という感じがするんです。

僕だって、「あなたは何で俳句を作るんですか、なにか表白したい強烈なものがあるんですか、あなたは俳句で本音を語っていますか」と問われたら、答えに窮する。それは多分、僕だけではないだろう。おそらく俳句を作る多くの人が、「表白したい強烈なもの」のために俳句を作っているのではないと思う。自分の中の切羽詰ったものを吐き出すというのは、表現という行為の中でも最も原初的な、本質的なものなのかもしれないが、表現したいという欲求を突き動かすものは、「強烈」という形容がおよそそぐわないような些細な心の波動であることが多いのではないだろうか。「喜怒哀楽」だの「思想」だのといった言葉を冠するのがためらわれるような、感情以前の心の揺れ、思想以前の小さな気づきを表わすのにこそ俳句はふさわしい、などと言ったら俳句を矮小化しすぎていると叱られるだろうか。

湖国いまなに煮るころや雛の酒」(渡辺竜樹)をめぐっての今井氏の次の発言もまた、厳しいなあと思う。

湖国は現実には昔のようには魚を煮ないでしょう。…江戸時代ならそういうことがあるかもしれないけれど。…だから、これ、ウソをついている。〈なに煮るころや〉と作者自身は思っていないけれど、情緒としては、そういうゲームとしては可としますということですか。

俳句というのは現実の出来事や、現実に自分の心に生じた思いにぴったりと寄り添っていなければ、「ウソ」として否定されてしまうものなのだろうか。今ここにいる自分自身の偽らざる表出でなければ許されないということになってしまうと、俳句というものがやせ細ってしまう虞はないだろうか。しかし、今井氏が最も忌避する手垢のついた俳句的情緒に陥らないためには、俳句から「ウソ」を厳しく締め出すという姿勢を貫くのが一番の得策なのかもしれない、とも思う。

俳句 2009年 05月号 [雑誌]

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