思考の快楽

俳句の力学

俳句の力学

俳句について「考える」ことは、俳句を「読む」こと、俳句を「作る」ことと同じくらい喜びに満ちた作業だと思う。
『俳句の力学』を読んでいると、著者の明晰な思考の流れに身をゆだね、どこかに運ばれているような心地よさを覚える。理知的に書かれた文章を読むとき、僕らは多かれ少なかれそういった一種の快感を味わうものだが、この本の与えてくれる快感は僕には極上のものに思われた。
この本には次のような問いかけが頻繁に出てくる。

私は、俳句における取合せとは、A(季題)にどんなB(非季題)を取り合わせるか、だと考えています。すなわち季題が主で非季題が従であると考えています。しかし本当にそう考えてよいのでしょうか。(季題と取り合わせ)

同じ句を読んでも読み手によって読み方が異なります。読み手間の読みのブレの可能性を、書き手はどう考えればよいのでしょうか。それは書き手にとってアンコントローラブルな事象なのでしょうか。それとも書き手は読み手の読みをある程度までコントロールできるのでしょうか。(俳句の設計思想)

著者はしばしば自分自身に問いかける。しかし性急に答えを出そうとはしない。一つ一つ、具体的に俳句に即しながら丹念に思考を積み上げる。考えるとは、自らの問いに答えようとするプロセスそのものだということを再認識させてくれるような文章だ。そして、読者もまたその思考に寄り添うことによって、目の前に新たな地平が開きつつあることを実感する。
読み手によっては、この本を「花鳥諷詠」の世界の奥深くへと分け入るための手引書のように感じるだろう。そのとおり、ここにはホトトギス派の句作の奥儀とでも呼びたくなるものが示される。しかしそれは、師から伝授されたもののいくつかを並べてみました、といった体のものではない。
著者はあくまでも自分で考える。たとえば、高濱虚子、波多野爽波、飯島晴子、外山滋比古の4氏の言葉を取り上げつつ、それらに通底するものを自らの思考によって見出す。そしてそこから句作への手がかりを引き出そうとする。著者はその後、

「写生」論は、論ずるうちに方法論が本質論に転じ、技術論が精神論に転じます。私はそういう議論こそが俳句らしくて面白いと思うのです。(写生について)

と述べるが、こうした議論の面白さは読者にも充分に伝わってくる。岸本氏の内なる強靭な思考力の存在を思わずにいられない。
そして、言葉への鋭い感性――
芭蕉の「明月や座にうつくしき顔もなし」がもし「名月や」だったらどうか。そもそも「名月」「明月」そして「満月」の違いは何か。著者はここでも説得力のある論を展開する。次に続く「切れ字について」「切れ字と叙情について」の章などもそうだが、下手をすればトリビアリズムに陥りそうな危うさを孕みつつ、決してそうはならないのは、論が著者の日本語への鋭い感性に支えられているからだと思う。こうした感性は、おそらくは俳句との長い付き合いの中で磨かれたものであろう。しかし、岸本氏は俳句というある意味極小の世界の住人であることに収まってはいない。
岸本氏はその思考の過程においてアナロジーを多用する。マーラー交響曲セザンヌの人物画、さらには寅さん、水戸黄門までが話題として登場する。
それらは俳句について説明するために引き合いに出された単なる比喩であることにとどまらない。著者は、音楽を聴くように、絵画を観るように、俳句を読む。楽団を指揮するように、絵を描くように、俳句を詠む。それらは表現する、あるいは演じるという地平において、同一なのだ。だから、俳句について論じることは、他のジャンルについて論じることにもつながる。
この本で展開される思考は、俳句、それも「有季定型」俳句というきわめて限定された枠の中でのものであるように見えて、実は限りなく広がりうる可能性をはらんでいるのだ。(だからたとえ読み手が「アンチホトトギス派」だったとしても、この本の価値がいささかでも減じるわけではないと思う。)
たとえば、次の一節。

思えば、自分の句が自分の分身のようであることほどつまらないことはありません。我が身からこんな句が生まれるのかという驚きを私は望みます。句作は、他者としての言葉の力を借りて自分の内なる他者を発見する行為です。(会話と棒読み)

これは今回通読した中で、衝撃といっても過言でない強い印象を受けたことろだ。これは、俳句に限っての話ではない。ちょうど楽器演奏のほうでは明らかに行き詰まりを痛感していた僕にとって、貴重な示唆を与えてくれた。これを次のように読み替えることが、僕にとっては次のステップへの確かな契機になってくれるに違いない。

…自分の奏でる音楽が自分の分身のようであることほどつまらないことはありません。我が身からこんな音楽が生まれるのかという驚きを私は望みます…